「そろそろ田植えの準備をする時期だね」
米の好きな殿は、外を眺めて嬉しそうにそう言った。
米と言ってもそれは単に食糧となるだけではなく、経済の基盤をなすものである。
したがって、米を多く収穫できる土地ほど大きな経済力を得られる。
この球磨の地は稲をよく育てるが、言うまでもなく、殿の頭には食い物としての米しかない。
「今年も美味しい米がたくさんとれたらいいなあ」
殿は早くも涎の出そうな顔をしていた。
どんな形であれ一国の主が豊作を願うことは大切なことであり、また、今年は川の堤防工事に着工し治水事業を進めるので、現実の面でも農民を援助することができる。
俺は殿様の御ため、
「では、青井神社に豊作を祈願しに参りましょうか」
と提案した。
青井阿蘇神社は相良家と縁深く、球磨びとが最も尊敬し親しんできた神社である。
その上、頼みごとをすれば必ず叶えてくれると信頼も厚い。
「いいね、行こう」
殿は頷くや否や支度を始めた。
俺は殿と並んで豊作祈願をしながら、殿様の御ためがこれからも成就してゆくように、と願った。
膳の上には熱燗2本と漬物を盛った皿が並べられ、それが殿の晩酌である。
今日は静かに呑みたかったのか、殿は珍しく黙って盃を干し続けた。
キジ馬はすでに眠り、俺は仕事の残りを片付けていた。
黙っている間の殿は、当たり前であろうが無表情である。
なにを考えているのかはわからない。
「よりあに」
不意に殿が俺を呼んだ。
「白菜の漬物を丸ごと食べたらうまいと思う?」
これを聞いたとき、殿はなにか高尚なことを考えているのではないか、と若干期待を抱いていた自分に気が付いた。
「うまい不味い以前に、体に毒です」
「そうか。じゃあやめとこう」
殿はそう言い、箸で漬物をつまんで食べた。
「丸かじりしようと思っていたのですか」
「男なら大胆にね」
自信満々に答える殿様の御ため、
「大胆、の方向性が少々ずれていると思われますが」
と、俺は妙な大胆を実行しようとしていた殿に釘を刺した。
やはり、殿には黙るより話していただかなければ、知らぬうちにおかしなことをされてしまう。
かつて読み学んだ本でも、目を通す回数が増えるほど、より深い意味を汲み取ることができるものだ。
読書というものは、他人が邪魔に入らない限り好きなように気楽に時間を過ごさせてくれるが、今日は深水頼蔵という邪魔が入ってしまった。
「頼兄殿ならなにか良い本をお持ちだと思いましたので」
違うことをしていたら「そんな本はない」と追い返したのだが、運悪く明らかに読書中であった。
俺は部屋の中の本を好きに探せと言い、読書を続けた。
すると早速頼蔵は机に積んである本を物色し、
「さすが犬童のお家ですね。このような珍しい本があるとは」
と、ある1冊を手に取り、いかにも読みたいと言わんばかりに目を輝かせた。
その本は、実家から持ち出した兵学書であった。
兵学は頼蔵の専門である。
貴重で高価な本だったが、
「読みたければ持って行け」
と、俺は貸し出すことを許した。
「まことですか、良いのですか」
許しが出るとは思ってもいなかったのか、頼蔵は子供のように歓声を上げた。
「殿様の御ため、お前には兵学を究める義務があるからな」
もちろん、頼蔵が軍師でなければ、あのような貴重な本は貸さなかっただろう。
幾度も礼を言う頼蔵に「ただしきちんと返せ」と付け足し、俺はうるさい頼蔵を部屋から追い出した。
午後、久し振りに岡本頼氏殿に出会った。
俺は一礼して挨拶し、他愛ない世間話でもしようかと思ったが、頼氏殿が先に意外なことを俺に尋ねた。
「頼兄殿が最も鮮明に覚えている殿との思い出と言えば、なんですか」
突然のことに俺は呆気に取られたが、とりあえず真面目に考え、
「昔、殿が薩摩に行ったときのことはよく覚えていますが」
と答えた。
俺が薩摩まで送ることは許されず、御下門から出て行く殿の後ろ姿を、見えなくなるまで見送ることしかできなかった。
いつ帰って来られるのか、そもそもここに帰って来られるのか、まだ若かった俺にはそれが辛い種だった。
「なぜこのようなことをお尋ねになられたのですか」
「頼兄殿は、あのとき殿を薩摩に取られてしまったことを己の不甲斐なさとして受け取り、そのために、いま殿のために必死に御奉公しているのでしょう。あなたのような方が、狭量な他人の言葉で潰れてしまうとお家のためになりません。周囲のことは気にせず、これからも変わらず励んでください」
そう言うと、頼氏殿は「それだけです」と言い残して廊下を歩いていった。
きっと、噂で昨日のことを耳にしたのだろう。
いまの俺の殿様の御ためが昔の反動かどうかはわからないが、原動力があれば志が途切れることはない。
そして、事あるごとに俺を励ましてくれる頼氏殿に感謝したい。
時折、殿の机の上に与えた覚えのない菓子が置いてあることがある。
とくに近頃は頻繁に目にしているので、思い切って「これはどうしたのか」と訊ねてみると、頼んでもいないのに家臣が持って来たということだった。
かつては、嫌々ではあるが、俺も殿が腹が減ったと訴えれば握り飯やらなにやらを与えていた。
しかし、下心を持って食い物を出したことは一度もない。
「そうでしたか」
俺は殿にはなにも言わず、のちに廊下で会った同僚に、
「殿の機嫌取りのために菓子を贈るのはやめていただきたい」
と注意した。
すると、彼は
「あなたに比べれば可愛いことだと思いますけれど」
と、如何にも煙たげにそう答えた。
「俺が汚い手を使って殿に近づいたと言うか。根も葉もないことを」
語気荒く反論すると、相手は鼻で笑った。
「御家中の者の、あなたに対する雰囲気を見ればわかるでしょうに」
それは前々からよくわかっていることだった。
自分には、御家中には気心の知れた人は1人もいない。
しかし、諸人が憎しみをもっても、顧みぬほどの御奉公をするほどの人物こそ、忠貞と思し召される者なのだ。
「よりあにー」
殿が俺を呼ぶ声によって言い争いは中断された。
「うまく気に入られているようですね」
ひとつ嫌味を残し、相手は振り返って去っていった。
殿様の御ためならば、孤独になろうと憎まれようと、それは些細な問題にもならない。