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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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夕方頃、ようやく人吉に到着した。
山々を越えたところにある開けた盆地は、改めて眺めると壮観であった。
ひとつ見慣れなかったのは、球磨川沿いの堤防工事の光景である。
数多の人夫が仕事に精を出していた。
遠目ながら上井覚兼の姿を探したが、それらしき人影は見当たらなかった。
殿には工事の人材集めと称しての旅だったものの、嫁を探すという真の目的すら成らず、登城の足取りは重い。
しかし、ひと月ぶりに会う殿は快く俺を迎え、無事戻ってきたことを喜んでいた。
「そうか、来てくれなかったか」
俺の報告を聞き、殿は少々残念そうな顔をしていた。
「ところで、薩摩から上井殿が来ているのでしょうか」
つい謝罪もそこそこに、くにの様子について訊ねた。
「上井さんは来てないよ」
「上井殿『は』ですか?」
そう答えると同時に、突然障子が荒々しく開けられた。
思わず刀を取って構えると、そこに居たのは島津義弘だった。
「長寿丸、薩摩揚げができたぞ!」
要するに、兄の義久に命じられ、義久配下の上井の代わりに義弘が来たということだった。
いくら弟と言えど、工事の監視程度に島津家第2の地位の者を送り込むとは予想だにしていなかった。
義弘はこちらに気付き、
「お!お前帰って来たのか!お前も食うかー!?」
と、近距離にも関わらず、戦場のような大声で俺を誘った。
「私にもよろしいのでしたら、是非いただきたいと存じます」
「じゃあ、長寿丸と一緒に二の丸に来いよー」
義弘はそう言い残し、廊下を歩いていった。
「義弘さんは、僕らの立場に構わず接してくれる。そのぶん気が楽だし、上井さんが来るより良かったよ」
それに加えて、義久・義弘兄弟は仲が悪い。
なにか不都合が生じても、義弘を丸め込んでしまえば兄に情報が漏れることもない。
「だから大丈夫だよ」
殿はにこりと笑ってそう言った。
「了解致しました。殿様の御ため、無事に工事が終わるよう助力させていただきます」
二の丸に行くと、薩摩揚げの匂いがそこら中に漂っていた。
ひとの城で堂々と薩摩揚げを揚げさせる島津義弘、なるほど兄も手を焼く武将である。
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雲行きが怪しい。
早々に気が付いたのが幸いし、夕方からの雨に遭わずに済んだ。
相変わらず洞窟の中は雨宿りをするキジ馬が多かったが、その中に珍しいものを見た。
キジ馬の家族である。
大きいものが2頭と、生まれたばかりと思われる子キジ馬が1頭いた。
殿が言っていたが、キジ馬の父親が、そう長い間母子と共にいることはない。
貴重な光景であった。
殿ですら見たことがないのだから、敢えて自慢するように話して反応を見れば面白いかも知れない。
殿様の御ための、よい土産話ができた。
山を下りていると、農具を脇に置いて座り込んでいる老人が見えた。
年が年だけに気になり、声を掛けたところ、草履の鼻緒が切れてしまったということだった。
齢のために目が悪く、うまく直せずにいたらしい。
「お武家様にこのようなことをして頂くわけには」
と、老人は渋っていたが、しつこく要求するとついに草履を寄越した。
鼻緒を直しながらふと彼に目をやると、袖から酷い槍傷の跡が覗いていた。
彼は俺の視線に気が付いたらしく、
「水俣の戦に参加したときの傷です」
と、さして気にしていないという風に説明した。
水俣の城では父が守将を務め、呼ばれていなかったが、俺も戦に赴いた。
どうやら、その傷のために腕の具合が悪くなり、畑を耕し続ける生活になったようだった。
足軽は、いくら良い働きをしても感状は貰えない。
家格も上がらなければ、石高が上がりより良い生活を営めるようになることもない。
ただ一時の利を得られるのみ、運悪ければ老人のように一生の不自由を強いられる。
「お殿様のために働けた、よい記念です」
農民の老人は、傷についてそう言っていた。
草履が直ると、老人は農作業用の籠から玉葱を取り出し、礼にと俺に手渡した。
籠と農具を背負って山を下りていく後ろ姿を眺め、しばらくそこに留まった。
かつて半農の足軽だった者が、あれほどの言葉を平然と口に出せるのである。
俺が目指す殿様の御ためとは、陰から役に立つ種のものばかりでなく、直接殿のためになり、お家を押し上げるようでなければならない、と再度認識させられた。
そうでなければ、彼のような者たち、足軽たちの上に立つ道理など無い。
野宿をしていると、食い物の匂いでもしたのか、キジ馬の子供が寄ってきた。
手の平に乗るくらいの大きさだったが、その位の大きさならば、まだ親が面倒を見ている頃である。
恐らく親と離れてしまったのだろう。
思い出してみれば、幼い頃の殿が拾ってきたのも、それくらいの子キジ馬だった。
あの頃もお家の存続に多忙な時期だったが、義陽公が健在だったぶん今ほど危うくはなかった。
現在の20代目の殿は、父の18代目を超えられるほど頼もしい存在なのだろうか。
子キジ馬は俺に餌をねだり、試しに干飯を与えるとよく食べた。
頼もしくはない。
だが、共にお家を盛り立ててゆくには、支え甲斐のある殿である。
出来過ぎた先々代よりも、殿様の御ために共に働きたい俺にとっては、当代の殿が合っているのだろう。
そんなことを考えていると、子キジ馬に今晩の干飯を平らげられてしまった。
ふと人吉の方角を見ると、山々の間から小さく町家が覗いていた。
遠目ではあるが、特に変わった様子はなかった。
が、よく目を凝らしてみれば、キジ馬幟が上がっている。
そう言えば、今日は端午の節句であった。
きっと、人吉城にも立派なキジ馬幟が上がっているのだろう。
例年は俺が殿の柏餅を用意していたが、今年は不在のため準備できず、残念である。
しかし、殿様の御ために早く球磨に戻り、柏餅に代わり椎葉の様子などを伝えねばならない。
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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相良家筆頭家老
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