晴れとまではならなかったものの、時折陽が差し、明るめの曇り空だった。
陽の眩しさで桜をまともに見られないということもなく、花見には適当な天候だったと思う。
昨日は二の丸の桜を観賞したので、今日は城下に下り、球磨川沿いに植えられている桜を見ることにした。
「他のところのよりきれいに見えるね」
殿は桜を見上げてそう言った。
川面に日が反射し、それ故により一層鮮やかに見えたのではないだろうか。
川沿いには町人たちも集まり、茶や団子を片手に花見を楽しんでいた。
俺はその手にあるものを見て、殿を喜ばせる大切なことを思い出した。
「殿、良い店がありますので、参りましょう」
向かった先は、以前頼蔵に案内された店だった。
俺は茶と桜餅を二人前、それに殿にはぜんざいを注文した。
「桜を目でいただいた後は、口でも楽しみたくなるでしょう」
「うん、でも桜の良さは口でのほうがわかりやすいかもしれない」
これはたいへん殿らしい返事だった。
殿は桜餅とぜんざいをきれいに平らげ、満足そうに腹をさすっていた。
その様子を見て、仕事が忙しかろうと、季節を楽しむ余裕を持つこともまた殿様の御ためであると思った。
陽の眩しさで桜をまともに見られないということもなく、花見には適当な天候だったと思う。
昨日は二の丸の桜を観賞したので、今日は城下に下り、球磨川沿いに植えられている桜を見ることにした。
「他のところのよりきれいに見えるね」
殿は桜を見上げてそう言った。
川面に日が反射し、それ故により一層鮮やかに見えたのではないだろうか。
川沿いには町人たちも集まり、茶や団子を片手に花見を楽しんでいた。
俺はその手にあるものを見て、殿を喜ばせる大切なことを思い出した。
「殿、良い店がありますので、参りましょう」
向かった先は、以前頼蔵に案内された店だった。
俺は茶と桜餅を二人前、それに殿にはぜんざいを注文した。
「桜を目でいただいた後は、口でも楽しみたくなるでしょう」
「うん、でも桜の良さは口でのほうがわかりやすいかもしれない」
これはたいへん殿らしい返事だった。
殿は桜餅とぜんざいをきれいに平らげ、満足そうに腹をさすっていた。
その様子を見て、仕事が忙しかろうと、季節を楽しむ余裕を持つこともまた殿様の御ためであると思った。
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今日は朝から雨が降っていたが、夕方頃には止んだ。
地面が悪いだろうと思ったが、散歩に行きたいと言い出した殿の供をして二の丸を歩いた。
案の定、土はぬめり、石畳は滑った。
「殿、転んで怪我をする前に戻りましょう」
俺はそう言ったが、殿は嬉しそうな顔で俺を振り返った。
「花びらだよ」
指差したその先には、水溜りに浮かんだ桜の花びらがあった。
「泥水の上でもきれいだね」
確かに、濁った水のなかでも鮮やかな桃色はそのままであった。
散って泥のなかに埋もれようとも、美しいものは美しい。
俺が死ぬときは殿様の御ためであってこそ、この桜の花びらのように在れるのだ。
そう考えつつ視線を地面から上げて枝の端々まで見上げると、雨にもめげず枝を覆っている桃色があった。
己が散るべきであれば散り、まだ幹を飾るべきであれば飾る。
散るも殿様の御ため、生きるも殿様の御ため。
状況を如何に判断するかによって、価値は俄然変わる。
「桜がすべて散ってしまう前に、明日は花見でもしますか」
殿の後ろ姿に声を掛けると、「うん」と弾んだ返事が返ってきた。
地面が悪いだろうと思ったが、散歩に行きたいと言い出した殿の供をして二の丸を歩いた。
案の定、土はぬめり、石畳は滑った。
「殿、転んで怪我をする前に戻りましょう」
俺はそう言ったが、殿は嬉しそうな顔で俺を振り返った。
「花びらだよ」
指差したその先には、水溜りに浮かんだ桜の花びらがあった。
「泥水の上でもきれいだね」
確かに、濁った水のなかでも鮮やかな桃色はそのままであった。
散って泥のなかに埋もれようとも、美しいものは美しい。
俺が死ぬときは殿様の御ためであってこそ、この桜の花びらのように在れるのだ。
そう考えつつ視線を地面から上げて枝の端々まで見上げると、雨にもめげず枝を覆っている桃色があった。
己が散るべきであれば散り、まだ幹を飾るべきであれば飾る。
散るも殿様の御ため、生きるも殿様の御ため。
状況を如何に判断するかによって、価値は俄然変わる。
「桜がすべて散ってしまう前に、明日は花見でもしますか」
殿の後ろ姿に声を掛けると、「うん」と弾んだ返事が返ってきた。
今日3日間の謹慎が明け、登城の許しが出た。
短期間と言えど、城から離れて過ごした日々は、己の勤めのありようを客観的に考えるには十分な時間であった。
「やっと帰って来てくれたね」
殿の部屋に挨拶に向かうより先に、廊下で殿と鉢合わせた。
どうやら、殿は俺を迎えるために城の入口まで出ようとしていたらしい。
「よりあにがいないとつまらないよ」
部屋で殿は茶をすすり、寂しげな顔つきでそう言った。
俺が不在の間は頼蔵が付いていたようだが、俺ほど気兼ねなく過ごすことはできなかったようだ。
「今後はあのようなことを起こさぬよう、よく己を戒めて参りました。この3日分も含め、これからは今まで以上に御奉公に励みます」
「わかった。じゃあ、塗り溜めた3日分の絵を見てみてよ」
殿は嬉しそうに、側に置いていた紙の束を俺の前に置いた。
以前ならば溜め息が出ただろうが、俺を第一に考えてくれている殿様の御ため、いや殿様の御ためと言わずとも、喜んで拝見させていただいた。
短期間と言えど、城から離れて過ごした日々は、己の勤めのありようを客観的に考えるには十分な時間であった。
「やっと帰って来てくれたね」
殿の部屋に挨拶に向かうより先に、廊下で殿と鉢合わせた。
どうやら、殿は俺を迎えるために城の入口まで出ようとしていたらしい。
「よりあにがいないとつまらないよ」
部屋で殿は茶をすすり、寂しげな顔つきでそう言った。
俺が不在の間は頼蔵が付いていたようだが、俺ほど気兼ねなく過ごすことはできなかったようだ。
「今後はあのようなことを起こさぬよう、よく己を戒めて参りました。この3日分も含め、これからは今まで以上に御奉公に励みます」
「わかった。じゃあ、塗り溜めた3日分の絵を見てみてよ」
殿は嬉しそうに、側に置いていた紙の束を俺の前に置いた。
以前ならば溜め息が出ただろうが、俺を第一に考えてくれている殿様の御ため、いや殿様の御ためと言わずとも、喜んで拝見させていただいた。
昨日は1日ひたすら写経を続け、静かな落ち着いた時間を過ごすことができた。
反面、今日は来客があった。
「近くに寄ったから」
と、息子と末娘を連れた姉上であった。
姉上は玄関にある草履を見ただけで俺が居ると察していたが、父上は気を遣い、
「殿から休みを頂けたのだ」
と話していた。
姉上が来ていると言うのに顔を出さないわけにもゆかず、複雑な心境ではあったが居間に向かった。
話を聞いていると姉上は変わらず健在のようで、夫や姑、長女も何事も無く冬を越したということだった。
「近親縁者のなかで越冬に命懸けなのは私だけですね」
そう冗談めかすと、姉上は笑っていた。
その顔を見ているうちに、俺はふと訊ねていた。
「姉上はいま仕合せでいらっしゃいますか」
よもや俺が口に出すとは思えない言葉だったからであろう、姉上はきょとんとしていた。
「あの家に嫁いで後悔はありませんか」
姉上は今度は穏やかに笑い、答えた。
「お武家に生まれた身なのに、父上も頼兄ちゃんも私を好きなところにお嫁にいかせてくれた。後悔なんてないわ」
姉上は庭で孫に刀を教えている父上に目をやった。
これを聞いて、俺はどこか心のうちの靄が晴れたような気分になった。
「そうですか。それなら良いのです」
俺は湯飲みに口を付けた。
「実は、もしかしたら私は深水のお家の頼蔵様に嫁がされるのかも、と思っていたのよ」
姉上のとんでもない発言に、思わず茶を吹き出しそうになった。
姉上が頼蔵に嫁げば、頼蔵と俺は義兄弟となり、その上頼蔵が義兄となる。
最悪だ。
犬童家と深水家が縁戚になれば殿様の御ためになるのかも知れないが、俺は即座に出家するだろう。
反面、今日は来客があった。
「近くに寄ったから」
と、息子と末娘を連れた姉上であった。
姉上は玄関にある草履を見ただけで俺が居ると察していたが、父上は気を遣い、
「殿から休みを頂けたのだ」
と話していた。
姉上が来ていると言うのに顔を出さないわけにもゆかず、複雑な心境ではあったが居間に向かった。
話を聞いていると姉上は変わらず健在のようで、夫や姑、長女も何事も無く冬を越したということだった。
「近親縁者のなかで越冬に命懸けなのは私だけですね」
そう冗談めかすと、姉上は笑っていた。
その顔を見ているうちに、俺はふと訊ねていた。
「姉上はいま仕合せでいらっしゃいますか」
よもや俺が口に出すとは思えない言葉だったからであろう、姉上はきょとんとしていた。
「あの家に嫁いで後悔はありませんか」
姉上は今度は穏やかに笑い、答えた。
「お武家に生まれた身なのに、父上も頼兄ちゃんも私を好きなところにお嫁にいかせてくれた。後悔なんてないわ」
姉上は庭で孫に刀を教えている父上に目をやった。
これを聞いて、俺はどこか心のうちの靄が晴れたような気分になった。
「そうですか。それなら良いのです」
俺は湯飲みに口を付けた。
「実は、もしかしたら私は深水のお家の頼蔵様に嫁がされるのかも、と思っていたのよ」
姉上のとんでもない発言に、思わず茶を吹き出しそうになった。
姉上が頼蔵に嫁げば、頼蔵と俺は義兄弟となり、その上頼蔵が義兄となる。
最悪だ。
犬童家と深水家が縁戚になれば殿様の御ためになるのかも知れないが、俺は即座に出家するだろう。
廊下を歩いていると、角を曲がった辺りから同僚2人の話し声が聞こえてきた。
「この御家中にも、越後の兼続殿に似た者がいるようだ」
越後の兼続と言えば、上杉景勝に仕える越後第2位の人物であるが、彼らが意図していたのは違う意味でのその人であった。
「進言諫言と言いながら、主君を意のままにしてしまう。越後のは節度があるが、人吉の兼続は意地汚いものだ」
2人は俺が居ることに気が付いているようだったが、更に声高に続けた。
「あの方はいま殿の嫁を探しているようだが、もしかすると自らの姉を離縁させ、殿に嫁がせるかもしれぬ」
それを聞いてから記憶が無く、我に返ったときには頼蔵に取り押さえられていた。
「よりあにが大喧嘩をするくらいだから、余程のことを言われたんだろ」
殿は俺に情状酌量の余地ありと見ていたようだったが、どんな理由であれ城中で騒ぎを起こしてしまったことに変わりはない。
俺は理由は語らず、喧嘩両成敗ということで実家にて明日より3日間の謹慎となった。
そのことを父に告げると、父は怒りもせず、冷静に理由を訊ねた。
実家に置いてもらう以上、父には事実を言わねばならない。
俺は答えた。
「私は自身を罵られることは構いません。しかし、話を姉上にまで波及されたことに腹が立ったのです。姉上には姉上の生活と人格があるにも関わらず、そこまで侮辱されたように感じ、我慢ならなかったのです」
父は黙って聞いていたが、話が終わると、
「そうか。わかった」
と頷いた。
「写経でもして心を鎮めていくといい」
父は穏やかにそう言い、俺の失態については全く指摘しなかった。
殿様の御ため、俺はここで心を落ち着け、二度と今日のようなことをせぬよう努める。
「この御家中にも、越後の兼続殿に似た者がいるようだ」
越後の兼続と言えば、上杉景勝に仕える越後第2位の人物であるが、彼らが意図していたのは違う意味でのその人であった。
「進言諫言と言いながら、主君を意のままにしてしまう。越後のは節度があるが、人吉の兼続は意地汚いものだ」
2人は俺が居ることに気が付いているようだったが、更に声高に続けた。
「あの方はいま殿の嫁を探しているようだが、もしかすると自らの姉を離縁させ、殿に嫁がせるかもしれぬ」
それを聞いてから記憶が無く、我に返ったときには頼蔵に取り押さえられていた。
「よりあにが大喧嘩をするくらいだから、余程のことを言われたんだろ」
殿は俺に情状酌量の余地ありと見ていたようだったが、どんな理由であれ城中で騒ぎを起こしてしまったことに変わりはない。
俺は理由は語らず、喧嘩両成敗ということで実家にて明日より3日間の謹慎となった。
そのことを父に告げると、父は怒りもせず、冷静に理由を訊ねた。
実家に置いてもらう以上、父には事実を言わねばならない。
俺は答えた。
「私は自身を罵られることは構いません。しかし、話を姉上にまで波及されたことに腹が立ったのです。姉上には姉上の生活と人格があるにも関わらず、そこまで侮辱されたように感じ、我慢ならなかったのです」
父は黙って聞いていたが、話が終わると、
「そうか。わかった」
と頷いた。
「写経でもして心を鎮めていくといい」
父は穏やかにそう言い、俺の失態については全く指摘しなかった。
殿様の御ため、俺はここで心を落ち着け、二度と今日のようなことをせぬよう努める。