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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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廊下を歩いていると、角を曲がった辺りから同僚2人の話し声が聞こえてきた。
「この御家中にも、越後の兼続殿に似た者がいるようだ」
越後の兼続と言えば、上杉景勝に仕える越後第2位の人物であるが、彼らが意図していたのは違う意味でのその人であった。
「進言諫言と言いながら、主君を意のままにしてしまう。越後のは節度があるが、人吉の兼続は意地汚いものだ」
2人は俺が居ることに気が付いているようだったが、更に声高に続けた。
「あの方はいま殿の嫁を探しているようだが、もしかすると自らの姉を離縁させ、殿に嫁がせるかもしれぬ」
それを聞いてから記憶が無く、我に返ったときには頼蔵に取り押さえられていた。
「よりあにが大喧嘩をするくらいだから、余程のことを言われたんだろ」
殿は俺に情状酌量の余地ありと見ていたようだったが、どんな理由であれ城中で騒ぎを起こしてしまったことに変わりはない。
俺は理由は語らず、喧嘩両成敗ということで実家にて明日より3日間の謹慎となった。
そのことを父に告げると、父は怒りもせず、冷静に理由を訊ねた。
実家に置いてもらう以上、父には事実を言わねばならない。
俺は答えた。
「私は自身を罵られることは構いません。しかし、話を姉上にまで波及されたことに腹が立ったのです。姉上には姉上の生活と人格があるにも関わらず、そこまで侮辱されたように感じ、我慢ならなかったのです」
父は黙って聞いていたが、話が終わると、
「そうか。わかった」
と頷いた。
「写経でもして心を鎮めていくといい」
父は穏やかにそう言い、俺の失態については全く指摘しなかった。
殿様の御ため、俺はここで心を落ち着け、二度と今日のようなことをせぬよう努める。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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