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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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殿の今日の朝食にはつくしの胡麻和えがついていたらしい。
城にこもりがちな日々であると、季節を膳で感じることも多い。
「よりあにのにはついてなかったの?」
「つくしは調理の手間が掛かりますし、まだ皆が食べられるだけ生えていないでしょうから」
そう答えながら、昔、姉上に手を引かれて球磨川近くにつくしを摘みに行ったことを思い出した。
料理するのに適当な量が採れたときは、日の差す縁側で姉上とふたり、つくしの袴を取ったものだった。
それを殿に話すと、殿は「そういうのいいよなあ」と羨ましげな声を上げた。
「いつか弟と、つくしを肴に夜桜でも見てみたいな」
「長誠様が酒を飲めるようになるまで、3,4年ほど待たねばなりませんよ」
「いいさ。遠くにいる1年より、傍にいる4年のほうが短い」
殿は筆を置いて寝転がり、「早く帰してやらないとな」と呟いた。
それはまさに兄の横顔だった。
が、すぐに跳ね起き、
「もし、長誠が薩摩のほうが居心地が良いから帰らない、って言ったらどうしよう」
と、縋るような表情で俺に意見を求めてきた。
俺は殿様の御ため
「長誠様は球磨のお方です。故郷を蔑ろにし、他国にうつつを抜かすようなことは決してなさいません。それになによりも、兄が待っているからには、必ずこの地にお帰りになるでしょう」
と、長誠様が球磨に帰ってくることを保証した。
殿は「だよね」とすこしは安心した様子だった。

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気になって…
2009/03/06(Fri)00:49:46
最後の頼兄殿による殿様の御ため言葉が途中切れてしまっているように見えますが…(・・;)

私の見間違えでしたら、このコメントを削除して下さい<(_ _)>
編集
Re:気になって…
2009/03/06 01:08
管理人の都合で、途中のまま日記を公開したようだ。
ご迷惑をお掛け致した。
いまは全文が公開されているので、俺の殿様の御ためをとくと見て欲しい。
犬童頼兄
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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