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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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殿の部屋の近くを通ったとき、深水頼蔵がそこから出てくるところを見た。
もしかすると、と思い、俺は頼蔵が廊下の角を曲がるのを待って殿の部屋に入った。
「殿、頼蔵に監物のことを訊ねたのですか」
殿の前に座るや否や、俺は予想していたことを殿にぶつけた。
殿は「はっきりさせておきたかったからね」と頷いた。
詳しく聞くと、どうも監物は過激な行動に走りがちであるので、俺の父の隠居を機に、頼蔵が監物をくに外れで大人しくしておくよう命じたらしい。
ここ数年ほど見掛けなかったのはそのためで、昨日俺が見たのは、久々に城下町に行っても良いという許可を自分が出したからだ、と頼蔵は説明したようだった。
よって、深水側が不穏な動きをしているという見解はあり得ず、殿には安心してもらいたいということだったそうだ。
「殿はそれを信じるのですか」
俺には頼蔵の説明は言い訳にしか聞こえなかった。
監物が姿を現したことにここまで危機感を覚えるのは俺の私情、はたまた私怨だと指摘されれば否定しきれぬ部分もあるだろう。
しかし、この大事な時期に不穏な空気を留めておくのは殿様の御ために良くないのである。
「信じてみる」
俺の思いとは逆に、殿はすこしも迷わずに断言した。
「よりあにの言いたいこともわかるけど、いまは頼蔵が要るんだ」
頼蔵は、外交の手腕に長けた深水長智の甥である。
その才は確かに頼蔵にも受け継がれているので、殿は今後のために頼蔵を手元に置いておきたいのであろう。
それもまたお家のためなのだ、と俺は自分に言い聞かせ、殿の前を失礼した。
妙な影が見え隠れしているにも関わらず、変わりなく殿の信頼を得た頼蔵を羨ましくも思う。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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