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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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ここ数日、殿は誰かと連絡を取っていた様子だった。
雑務ならば俺が代わると言っても、頑なに「僕がやるから」と言って聞かない。
まだ島津義弘が居ると言うのに、加藤清正と書状を交わしていたならばただ事ではない。
せめて相手が誰なのかを訊こうと思ったが、筆を動かす様のその軽やかさを見ていると、穏やかならぬものではないと伝わってきた。
「今朝、殿が私たちにこれをくれたのですよ」
用あって了心様の部屋に伺ったとき、そう言って小袋を差し出された。
良い香りがする。
「これは五木の茶葉ですね」
「今日は良い夫婦の日だそうで。あの人ともども、これをよくいただいておりました」
了心様は懐かしそうに目を細めた。
「殿は覚えておいでだったのですね」
息子の思いやりに感動してか、母君の睫毛は濡れていた。
殿も粋なことをする。
幾日も掛けて自ら五木の茶職人に掛け合い、両親に対する尊敬を精一杯表現しようとした。
「今日は1杯だけいただいて、次はあの人の命日に2杯淹れ、今年1年の報告をしながら一緒にいただこうと思っています」
了心様は小袋を掌で優しく包んだ。
「あなたの遺した息子は、優しくも頼もしい、相良家の立派な殿になっております、と」
夕刻、二の丸で猫と戯れている島津義弘を見つけた。
「へえ、あいつもやるなぁ。にしても、女って大変だな。男は戦に出ても自分が頑張ればなんとかなるけどさ、女は旦那が生きて帰るかどうかも、旦那が死んだときの自分の今後のことも、自分ではどうこうできないんだぜ」
「ですから、我々はそれこそ死に物狂いで生きて帰ろうとするのでしょう」
「あぁそうか!お前、よく分かってんだなぁ。もしかしてバツイチか?」
この寒い最中に散々な言われようである。
「違います。冷え込んで参りましたので、そろそろ中にお入りください」
俺が戦場からどうしても生きて帰りたいと思うのは、一途に殿様の御ためである。
殿の補佐役を仰せ付かった以上、殿の許しもなく野に死すことは紛れも無く大罪なのである。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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