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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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城郭を出た南側には、相良神社と呼ばれている神社がある。
初代長頼公が、築城時に三日月模様の石が出土したことを記念して創建したと言われている。
城郭から外れているのは、広く領民にも参詣できるよう気を配ったからだ、と以前神主から聞いた。
今日は深水頼蔵と共にその神社に参ってきた。
多くの人が参詣に訪れており、境内は賑やかだった。
社殿は地味な造りで、一般的な神社とさして変わらないが、その神社の特色は絵馬にある。
城下絵師作






(城下絵師作)

キジ馬型の絵馬で、キジ馬(ま)という。
隅には赤字で「開運キジ馬」、その横には「相良神社」と書かれた相良神社特有の絵馬である。
境内にある絵馬掛には、様々な願い事を書き込んだキジ馬が奉納されていた。
「私どもも書きませんか」
俺がキジ馬を眺めていると、どこかに行っていた頼蔵が2枚のキジ馬を持って戻ってきた。
新年早々お家にとって危ない事態が生じたので、仕切り直しにこのようなものも良いだろう、と思い、俺は有り難く書かせてもらうことにした。
空白に大きく殿の御ためと書き、絵馬掛に掛けた。
「誰が書いたか、すぐに分かりますね」
頼蔵は笑い、同じく書き上げたキジ馬を掛けた。
「視力向上」。
「お前のも、誰が書いたかすぐに分かる」
俺がそう言うと、頼蔵は眼鏡の奥の目を細めてまた面白そうに笑った。
「どちらが先に叶いますかね」
頼蔵が子供のように浮かれてこう言った。
「俺が先だ」
俺はそう答え、「そろそろ戻るぞ」と頼蔵を促した。
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参詣ありがとうございます。
2009/01/27(Tue)00:12:05
相良神社への参詣誠にありがとうございます。
頼蔵氏と仲良くキジ馬を捧げたようで、制作者として大変嬉しいです!
お二方の願い事が成就しまうよう心からお祈り申し上げます。
編集
Re:参詣ありがとうございます。
2009/01/29 01:57
キジ馬に書いたのは子供の時分以来だった。
頼蔵と「仲良く」したつもりは無かったが、確かにあのときは妙に気が合った。
キジ馬に書いたのは神仏に願いを託したわけではなく、誓ったのだと思って励んでいこうと考えている。
犬童頼兄
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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職業:
相良家筆頭家老
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