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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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殿の嫁について相談するために、殿の母君である了心様の部屋に赴いた。
頼蔵から聞いた椎葉の娘の話をすると、了心様も興味を持ったようで、考えておくのも良いでしょうと肯定的な答えを返した。
話が終わったので失礼させて頂こうとすると、了心様は、
「薩摩の上井様はどのような方でしたか」
と覚兼の話を出した。
その表情は先程とは一変し、憂えていた。
俺は、さすがは義久の側近を務める方で、抜け目のない嫌な優秀さを持った使者だった、と述べた。
「そうでしたか」
了心様は小さく溜め息をついた。
「島津のお家には、ほんとうに苦しめられます。殿はなにも邪に利益を求めているのではなく、ただ、この家とこのくにの民の暮らしを守るためだけに策を練っていらっしゃると言うのに」
「ただそれだけのことでも、相手方には脅威に見えることもあるようです」
薩摩にとっては、相良が手を結ぶ相手が加藤清正となると、その背後にある中央勢力が気になって仕方がないのである。
「しかし、私は悲しみなどという余計なものは抱いておりません」
了心様は引き締まった声色で言った。
「当代の殿様には、あなたがおります。きっと上手に、この荒れた世を渡る手助けをしてくださると私は信じております」
優しい瞳で信頼を向けられ、俺は感激のあまりつい早口になった。
殿様の御ため、ご期待に背かぬよう尽力して参ります」
了心様は俺の必死さに「ふふ」と好意的に笑い、庭に見える、まだつぼみの梅の枝を眺めた。
梅には一足先に春が来る。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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