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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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午後、仕事をしていると、殿が
「今日の晩御飯はみんなで食べようよ」
と言い出した。
「それは良いですね。大広間に集まって皆で豆まきをし、恵方巻きを食べるのですね」
傍で先月分の会計資料をまとめていた深水頼蔵も賛成し、俺に同意を求めるような視線を送った。
「では、そのように知らせを出しておきます」
雰囲気に負けて俺は仕事を中断し、「節分行事の知らせ」を書いて皆がよく通る場所に貼っておいた。
夜、貼り紙を見た者から口伝に聞いたのか、1人も欠席することなく全員が大広間に集まった。
型通りに豆まきをしたあと、年の数足す1の大豆をとって膳の上に盛ると、予想以上の大盛であった。
「このようなときに、改めて年齢を実感しますね」
頼蔵がそう言ったのを岡本頼氏殿が聞き、
「確かにその通りですな」
と、どうしようもないほどに膳に盛られた大豆を眺めて愉快そうだった。
膳からこぼれそうになるほどの大豆を盛ることは、それまで生きてこられたということである。
実はたいへんな幸せであるのかもしれない、と俺は思った。
恵方巻きに手を付ける前に、殿が
「今年もみんなが元気でいられるように」
と自分の願いを言って盛り上げたあと、揃って今年の恵方である東北東を向いて食べた。
俺の願いは、変わらず殿様の御ためである。
邪気が入りやすいと言う季節の変わり目に邪気を払ったので、今年もお家安泰のためにつつがなく働くことができるだろう。
その後、場は例の如く酒宴になだれ込んだ。
頼氏殿は大豆をつまみに酒を飲んでいたが、大豆がなくなるには小一時間掛かっていた。

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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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