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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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町の様子を見るため、今日は城下に下りた。
いつもの通り、殿は市や町家、農家の畑を見て回ったが、そろそろ視察も終わりという頃、小さな武家の家が立ち並ぶ地区の近くまで来ていた。
低い垣のなかには質素な屋敷があり、庭の隅には洗濯物が干され、その物干しの周りを鶏が走っている。
「懐かしいなあ」
殿は思わず垣に近寄り、中の様子を覗き込んだ。
殿が懐かしいと言うのは、子供の頃、よく下級武士の家の子と遊んでいたからである。
国主の子を卑しい下級武士の子と遊ばせるなど、と御家中の名だたる名臣たちからは反対されたが、特定の身分の子としか接せられなければ、殿にほんとうのこの身分社会というものをわからせられない。
そう考えていたので、俺は構わず殿を下級武士の住まう地区に連れて行き、身分は明かさずに好きなように遊ばせていた。
「確かここは三郎の家だったよね」
偶然だったが、その家は殿と特に仲の良かった三郎という子の家だった。
「よりあにはいつも三郎に襟巻きを引っ張られて、恰好の玩具になっていたっけ」
「私は彼を目で殺そうと幾度も思いましたが、殿様の御ため、我慢したのです」
「僕のときは遠慮なく殺したじゃないか」
「それはそれで殿様の御ためなのです」
俺がそう答えると、
「なんだか言いくるめられているみたいだ」
と殿は口を尖らせた。
言いくるめているのではなく、殿様の御ためには様々な角度があるのです。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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