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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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自室で仕事をしていると、障子の向こう側から話し声が聞こえてきた。

映っている影から、そこにいるのは侍女2人だとわかった。

俺に用があるような気配だったが、一向に障子を開けてこない。

「なにか用事か」

しびれを切らせて障子を開けると、困り怯えたような表情をした侍女2人がいた。

「用があるならさっさと言え」

と言ってみても、2人は「えっと」や「あの」と繰り返して互いの様子をうかがい合うばかりで、まったく要領を得ない。

もう一度促そうとすると、

「きききき今日、こ、これを御家中の皆様にお配りしてお、ります。お、お受け取りいただけますでしょうか」

と所々引っ掛かりながら、片方の侍女が小さな箱を差し出した。

「これはなんだ」

腕組みをしたまま、俺は不可解なその箱を目で指した。

「お菓子でございます」

恐る恐ると言った上目遣いでもう1人の侍女が答えた。

「女中部屋の皆で作りました。よろしければお召し上がりください」

ここまで言わせて受け取らなければ、俺は決定的に侍女の連中に悪印象を叩き付けることになる。

俺は「そうか」と頷き、小箱を受け取った。

すると、2人は「有難うございます」「失礼致します」と口々に言い、足早に俺の部屋の前をあとにした。

余程この訪問が重荷だったようであった。

障子を閉めて机の前に戻り、丁度小腹の空く時間帯だったので、俺は早速箱を開けてみた。

中には、質素だが品のある小振りの饅頭が3つ入っていた。

その内の1つを取り出しかじってみると、白あんが詰まっていた。

渋い茶が欲しくなるような甘さだったが、美味かった。

「理由はわからないけど、わざわざ作ってくれたんだから嬉しいじゃないか」

夕方、書類を提出するために殿の部屋に行くと、殿は例の小箱の話をし始めた。

「皆のぶんを作るとなると、朝早くからか、もしかすると徹夜で取り掛かっていたのかもね」

殿は俺の書類に花押を描き、「完了」と言った。

俺が訳もわからず受け取った旨を報告すると、殿は、

「よりあにのことだから、怖い顔して受け取って、そのまま帰しちゃったんだろ」

まさにその通りだった。

「では、今度会った折にでも礼を言っておきます」

女相手に気を遣うのは御免だったが、殿様の御ため、礼は礼として果たすべきだと思った。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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