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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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今日、無事に加藤清正からの返事が届いた。
待ちに待った手紙である。
どのような答えがあるのか、固唾を呑んで折り畳まれた書状を開いた。
「虎がキジ馬を腹の下に匿い、そのうしろには猿がいますね」
殿と深水頼蔵、俺の3人で1枚の絵を眺めた。
「虎は加藤清正殿、キジ馬は殿、猿は…」
頼蔵がそこまで言って詰まると、思わず俺と頼蔵は顔を見合わせた。
まさかこう表現してくるとは予想だにしていなかったからだ。
そうか、この猿は猿に似ている秀吉さんか!」
殿の発言に俺は思わずむせそうになった。
「殿、そのことについては穏便に…」
ずれた眼鏡を直しながら、頼蔵が苦笑いを浮かべてそう言った。
清正は秀吉から我が子同然の特別扱いを受けているが、その恩に対して猿描写はないだろう。
「まあとりあえず、この返事から清正がこちらの味方をし、その上その背後には秀吉もついていることが改めて確認できましたね」
俺は話を本来の目的に戻し、大事な会議の雰囲気を元に戻そうとした。
「そうだね、しばらくこれで様子を見てみよう」
殿は扇子をぱちりと閉じて立ち上がった。
「頼蔵、下がっていいよ」
殿は頼蔵を下がらせ、俺を部屋に残した。
俺は眼下の城下町を眺める殿の近くに寄り、言葉を待った。
「よりあに、ここは落ちる」
表情ひとつ変えず、殿ははっきりとそう言った。
「お前もわかっていただろう。この盆地は決戦場になる。なにもかもが無くなる」
下を見ると、商売で賑わう町があった。
この城は、殿の先祖が遠く遠江からこの地に赴いたときから400年近く、形を変えつつここにある。
それが無くなれば、相良家の歴史そのものは無くなりはしないものの、一旦地に堕ちることになる。
「しかし殿、確実にそうなると決まったわけではありません」
俺は殿様の御ため
「それは島津を待ち受けた場合です。まず清正を呼び、こちらから行けば戦場は薩摩となりましょう」
と、人吉が戦場にならない策を提案した。
「加藤さんを呼びつけるなんてできるのか」
「そのような傍若無人な交渉は、我々家臣の仕事です。時機が来た場合、必ず清正を頷かせてみせます」
これは腕の見せ所である。
不謹慎ではあるが、俺はそのときが待ち遠しい。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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