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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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午後、昼食に出た魚の残り骨を猫に与えていると、残念なことに深水頼蔵が傍を通り掛かった。
それを見て、夢中で骨を舐めていた猫は骨をくわえて逃げ去った。
俺は屈んだまま廊下の上の頼蔵を見上げた。
「なんだか、『お前のせいで猫が逃げた』と言いたげですね」
俺は立ち上がり、
「そんな子供のようなことは思わん」
と猫が走っていった方向を見た。
「殿がキジ馬好きなら、その側近は猫好きですか」
「お前も似たようなものだろう。女好きだ」
頼蔵は「失礼な」と言い、「あなたが女子に興味を持たなさ過ぎるのですよ」と逆に俺を非難した。
「女など邪魔だ」
「そんなことを言わずにそれなりにしていれば、人柄はともかくも家柄は文句のつけようがないのですから、むしろ相手が望んで嫁に来てくれるはずですのに」
「さりげなくそしるな」
「先にあなたが火を点けたのですから、その言い分は通りません」
「針に穴を通すよりは通りやすい話だろう」
「針に穴を通す?訳の分からないことを言わないでください、それを言うなら糸に針を通す、でしょう」
「お前のほうが意味が分からん、糸より細い針があってたまるか」
「ありますよ、あなた知らないんですか?教養が足りないようですね」
「眼鏡がなければ論語も読めない奴がそれを言うか」
「襟巻きがなければ生きていけないような方が、眼鏡を卑下しますか」
そうやって言い合いをしていると、岡本頼氏殿が現れた。
「あなた方はまた喧嘩をしているのですか」
頼氏殿は呆れ気味にそう言い、「とにかくもうやめなさい」と俺と頼蔵を黙らせた。
「それで、なにが原因なのですか」
頼氏殿の問いに対し、俺は「襟巻きをこけにした」と答え、頼蔵は「眼鏡を蔑んだ」と答えた。
襟巻きと眼鏡の議論に白熱しすぎ、両者とも言い争いのきっかけをきれいに忘れていた。
頼氏殿は目を点にし、肩をすくめた。
「確かに、襟巻きと眼鏡はそれぞれの存在証明とも言えるものですけれども、それで喧嘩など子供ですか」
俺と頼蔵は頼氏殿の部屋に連れて行かれ、説教をいただいた。
俺は説教の最中にほんとうの理由を思い出し、横目で頼蔵を見ると頼蔵もこちらを横目で見ていた。
思わず揃って舌打ちをすると、説教はさらに長引いた。
俺は殿様の御ため、眼鏡より襟巻きのほうが優位であることを証明しなければ、頼蔵より俺を近くに置いてくれている殿に申し訳ないと思うのだ。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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