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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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昨日の「良い夫婦の日」に引き続き、今日は勤労感謝の日だった。
そのため、堤防工事も今日ばかりは休暇とし、工夫たちを休ませることにした。
城勤めの家臣らも休日となり、屋敷で休む者、連れ立って領内に狩りに出掛ける者、様々だった。
「お前はどこにも行かないのか?」
島津義弘が二の丸で猫を集めていたので、近寄ると彼はそう言った。
「そう易々と、殿のお側を離れるわけには参りませんので」
「真面目なんだなぁ」
義弘が猫を撫でてやると、猫は気持ち良さそうな声を出した。
「義弘殿は猫がお好きなのですか」
「あぁ、好きだよ。可愛いじゃねぇか」
薩摩の屋敷でも飼いたいらしいが、兄が許さないようで、仕方なく外出時に野良猫に構っているようだ。
「それに、猫の目をよく見たら時間が分かるんだぜ。だから、たまに戦に連れてったりするんだ」
「それは良いですね。雨の日でも時刻が分かるとは便利です」
そうして、今日は島津義弘に猫を使った有意義なことを教わった。
夜、早速猫を数匹部屋に集め、教わった通りに見てみると、確かに瞳孔の具合から時刻を見て取れた。
部屋の前を通り掛かった深水頼蔵は、覗き込んで
「にゃあにゃあ聞こえると思ったら。こんなに集めてどうしたのですか」
と笑っていた。
「これも殿様の御ためだ」
そう言って猫を外に帰そうとすると、いつの間にか猫が皆炬燵の中に入り込んでいた。
「これがどのようにして殿のお役に立つのか存じませんが、とりあえず明日のあなたのめざしが無くなりましたね」
頼蔵の言う通り、明日は猫にえさを与えてから帰そうと思う。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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