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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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読みたい本が実家にあることに気が付き、午後暖かくなってから城を下りた。
城の梅と同じく、庭の梅の木も枝に点々とつぼみをつけていた。
探し物は屋敷とは別の建物にあるのだが、実家に足を踏み入れたからには、父に挨拶をせねばならない。
父は大抵居間か自室にいるので、とりあえず試しに居間を覗いてみた。
「どうした頼兄、豆でも撒きに帰ったか」
真面目なはずの父が、俺を見るなり冗談を飛ばした。
よく見ると、父の前には膳が置かれていた。
「父上、昼間から酒ですか」
俺は半ば呆れ、膳を挟んで父の前に座った。
膳には熱燗2本と、球磨川で獲れた鮎の内臓で作った苦うるかが乗っていた。
「世間さまでは、今日は日曜日だ。今日くらいは昼から呑んでも罰は当たらないだろう」
父は明らかに酔っ払い、上機嫌だった。
隠居した父には日曜日も平日もない日々であるが、現役のころ身を粉にして働いていた背中を俺は間近で見ていた。
それだけに、引退後の生活くらいは穏やかに過ごしてもらいたく思っていたので、昼間の酒を嗜む余裕のある父の姿はかえって俺を安心させた。
「せっかくだから、これの茶漬けを食っていけ。昨日市で買ったんだが、格別だ」
父が盛んに旨いと勧めるので、俺はうるかの茶漬けをもらうことにした。
塩がよくきいて、確かに美味かった。
父も酒の締めとして食っていたが、不意にぽつりと呟いた。
「こう年を取ると、子供と飯を食うのが唯一の楽しみになるのだな」
俺は思わず父の顔を見た。
「風の噂で、上井がここに来ていたと聞いた。殿様の御ためにはお前もたいへんだろうが、たまには息抜きでもしに家に帰って来い」
「ではその際には、また美味いものを食わせてくださいね」
俺がそう言うと、父は本心を見透かされたと思ったのか、若干どもりながら
「ああ、用意しておいてやる」
と頷いた。
「梅を咲かすも枯らすも、殿を補佐する家臣の腕に掛かっている。そこを忘れぬように」
照れ隠しのつもりであろう。
父は相良のお家の家紋、長剣梅鉢を梅の木に例えて俺を諭した。
心得ております、と返事し、俺は庭の梅の木に目を移した。
今年の春も、きっと見事な花を咲かせるだろう。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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