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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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昨日は1日ひたすら写経を続け、静かな落ち着いた時間を過ごすことができた。
反面、今日は来客があった。
「近くに寄ったから」
と、息子と末娘を連れた姉上であった。
姉上は玄関にある草履を見ただけで俺が居ると察していたが、父上は気を遣い、
「殿から休みを頂けたのだ」
と話していた。
姉上が来ていると言うのに顔を出さないわけにもゆかず、複雑な心境ではあったが居間に向かった。
話を聞いていると姉上は変わらず健在のようで、夫や姑、長女も何事も無く冬を越したということだった。
「近親縁者のなかで越冬に命懸けなのは私だけですね」
そう冗談めかすと、姉上は笑っていた。
その顔を見ているうちに、俺はふと訊ねていた。
「姉上はいま仕合せでいらっしゃいますか」
よもや俺が口に出すとは思えない言葉だったからであろう、姉上はきょとんとしていた。
「あの家に嫁いで後悔はありませんか」
姉上は今度は穏やかに笑い、答えた。
「お武家に生まれた身なのに、父上も頼兄ちゃんも私を好きなところにお嫁にいかせてくれた。後悔なんてないわ」
姉上は庭で孫に刀を教えている父上に目をやった。
これを聞いて、俺はどこか心のうちの靄が晴れたような気分になった。
「そうですか。それなら良いのです」
俺は湯飲みに口を付けた。
「実は、もしかしたら私は深水のお家の頼蔵様に嫁がされるのかも、と思っていたのよ」
姉上のとんでもない発言に、思わず茶を吹き出しそうになった。
姉上が頼蔵に嫁げば、頼蔵と俺は義兄弟となり、その上頼蔵が義兄となる。
最悪だ。
犬童家と深水家が縁戚になれば殿様の御ためになるのかも知れないが、俺は即座に出家するだろう。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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