忍者ブログ
マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
11月
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
10月
12月
 
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

4月も中旬に差し掛かり、十分暖かくなって来たということで、球磨川の堤防工事の件が進められることになった。
工事には大勢の人夫が必要である。
城下の中心部や農村部に人夫を募る触れを出し、さっそく働き手の確保を始めた。
「覚兵衛さんが言っていたけど、加藤さんが上手く工事を完成させられたのは、働く人にきちんと日当と農作業の時間を取らせたからだってさ。僕らもそうしようね」
殿はそう言い、工事の過程のみならず、人の使い方でも加藤の良いところを再現しようとしていた。
「頼兄殿には、人材調達に出向いていただきたいと思います」
全体の会議が解散となると、深水頼蔵が俺に声を掛けてきた。
どういうことかと訊ねようとしたところ、頼蔵はとりあえず自分の部屋に来て欲しいと小声で言った。
殿にはあまり聞かれたくない様子であった。
なにを話すのだろうかと俺は興味を持ち、頼蔵の部屋に場所を移して改めて問うた。
「暖かくなったことですし、椎葉の娘さんを訪ねて欲しいのです」
椎葉の娘と言えば、殿の嫁の候補である。
「それはお前のほうが適役だろう。俺が女を上手く口説けるはずがない」
「私はこちらに残り、会計として資金調達をせねばなりません」
「岡本殿はどうなんだ」
「岡本殿にはあの山は険しすぎます。それに」
頼蔵はそこで突然言葉を止め、俺を見て嫌な笑いを浮かべた。
「あなたは殿の一番の家臣なのですから、あなたが行かずして誰が赴くと仰るのですか。これは殿の一生に関わること、殿もあなたに結婚の面倒を見てもらいたいはずです」
俺が確実に断らないであろう文句を突きつけられ、俺は椎葉行きを承諾するほかなかった。
殿様の御ためであれば、険しい山も、ましてや大事業から一旦身を引く歯がゆさも厭わない。
「わかった。さっそく明日出発する」
俺はそう答えたが、実際のところ、椎葉の娘とその父親を口説き落とせる確信は無い。
相良のお家が球磨の領主の家柄と言えど、現実熊本と薩摩の板挟みの状態であることを考慮すれば、そのような危険な場所に娘を嫁がせるのは躊躇するのではなかろうか。
この負の点をいかに好転させるかが、俺の腕に掛かっている。
PR
COMMENT
文字と絵 Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
お名前
メール
URL
PASS
TRACKBACK
TRACKBACK URL : 
 
PRODUCED BY SHINOBI.JP
こよみ
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
リンク

(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



歴史ブログ村
(PC用リンクバナー)
書き手の殿様の御ためっぷりがお気に召しましたら、クリックをお願いします
カテゴリー
キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
来訪者数
最新コメント
最新トラックバック
最新記事
プロフィール
HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
バーコード
ブログ内検索
最古記事
アクセス解析