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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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人吉を発ってから11日目、今日ようやく椎葉の棟梁が住むという集落に到着した。
入口の門にて門番に名乗り身分を伝えると、門番は不可解そうな表情ながらも、俺が集落の中に入ることを許した。
その後門番は上の者に俺を引き渡し、その者によって確かに俺が相良頼房が家臣であることを確かめられた。
特に襟巻きについつはくどいほどに質問された。
「弾正様に、相良殿の家臣がいらした旨をご報告して参ります」
ようやく那須弾正に取り次いでもらえたのは、門を通過して2時間ほど経ってからであった。
山奥の暮らしだからだろうか、余所者には厳重な対応をするようである。
これから考えるに、弾正は慎重な人間なのであろう。
しかし、通された部屋で待っていたところ、力任せに障子を開けて入ってきた那須弾正は、豪放磊落な山男と言った風体であった。
「相良殿の家臣、犬童殿か。名前はよく聞こえている」
彼は旅の労を労ったあと、早速俺に用件を訊ねた。
「単刀直入に申し上げます。あなたのご息女、露袈裟殿を我が殿の嫁としてお迎えしたく存じ上げ、ここ椎葉に参りました」
これを聞いた弾正は俺の真意を探るような目をし、「それだけか」と怪訝な様子であった。
どうやら、相良の当主の側近が来たからには、対加藤への要請と考えていたらしい。
「それだけもなにも、大切なご息女に関わることです」
「俺は構わん。だが、娘と会って、どんな奴かを相良殿への土産話にするといい」
そう言って弾正は娘の嫁入りをあっさり許し、明日娘と会う機会まで設けてくれた。
「それにしても、嫁のためだけにわざわざ側近がこんな遠方にまで参られるとはな」
「それはすべて、殿様の御ためにございます」
俺の答えを聞いて、弾正は「やはり」といったような笑みを浮かべた。
「噂どおり」
なにが面白いのか、彼は耳が痛むほどの声で大笑いした。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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