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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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相変わらずすることもなく、昨日と同じく庭先に出ていると、猫が近寄って来た。
旅の最中はキジ馬ばかりだったので、懐かしく思い頭を撫でてみたところ、猫は気持ちの良さそうな鳴き声を出した。
嫌がらないのでその後も猫に構っていると、屋敷のほうから障子の開く音が聞こえた。
出てきたのは女で、それもかなりの美人である。
「猫が好きなのですか」
女は俺を見、そう問い掛けた。
「好ましいとは思います」
女に気付いたのか、猫は走り去った。
「露袈裟殿ですか」
「かく言うそなたは、相良殿が家臣、犬童頼兄殿ですね」
露袈裟は和やかに微笑み、部屋に上がるように言った。
父や兄を通さずに勝手に上がっても良いのか、と訊ねたが、娘は「構わぬ」と言い張った。
「父上や兄上からお話は伺いました。頼房殿に嫁ぐのですね」
「無理にとは申しません。すべて納得して頂いた上で、球磨にお越し頂きたいのです」
俺が型程度の謙遜を言うと、露袈裟は笑った。
「納得などと。私が球磨に赴きすべてを知るときには、既に縁組が成立しておりますでしょうに」
「それはご尤もです」
言いたいことははっきりと言う、確かに気の強い娘のようである。
その後、娘が殿について質問を挙げたので、それらに対して詳細に答えた。
露袈裟が「もうよい」と止めるまでそれは続き、俺は部屋から下がろうとした。
すると、
「なぜ今日ようやくそなたに会おうと思ったか、わかりますか」
と、娘は再び庭に出ようとする俺に訊ねた。
「それについては、私には理解できかねます」
「はじめのうちは突然の縁談に驚き、反抗の気持ちもありました。しかし、殿の側近という高い身分でありながら、自ら危険をおして私に会いに来てくださったという、そなたに会ってみたくなったのです」
露袈裟は穏やかに微笑みながら、そう答えた。
「殿様の御ためならば、山越え程度は易いこと。それよりも、本日あなたにお会いできて、誠に有意義でした」
俺は一礼し、入室時と同じように庭に退出した。
強気な目元も、笑うと穏やかであった。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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