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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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先日以降、毎日露袈裟に会って懇談している。
以前贈った木彫りのキジ馬もそれなりに気に入ったようで、なによりの経過である。
今日は、人吉ではこの時期になるとキジ馬幟を上げることを話した。
これは雛祭りと対なるもので、幟は男子の成長を祝い願うものである。
すでにキジ馬絵馬のことは話していたので、娘は
「球磨ではなんでもキジ馬なのですね」
と笑っていた。
なるほど好感触であった。
しかし、夕方、これまで築き上げて来たすべてが瓦解した。
薩摩に偵察に出ていた弾正の部下から、相良は信用できぬとの報告があったらしい。
上井覚兼だと直感した。
人吉ではおそらく堤防工事が始まっている。
かつて覚兼が言い渡した工事見学の申し出を頼蔵辺りが呑み、薩摩に連絡の書状を差し出したので、島津家が人数を出す手筈を整えているその場面を弾正の部下が見たに違いない。
故に、反加藤を掲げている相良が島津に厳重に監視されている実態に疑問が生じたのであろう。
早速弾正に呼び出され、この縁談は無かったことにし、以降金輪際露袈裟に近づくことは禁止となった。
周囲の武家の支配を受けていない椎葉の集落と言えど、相良と縁組し、大勢力の島津家に睨まれるなど一切御免である。
結局、日が暮れる前に那須家を追い出されるように出、再び山道を球磨に向かって歩くことになった。
なんの収穫もなく帰路についたのだが、露袈裟という娘がどのような気性であるかを知られただけでも良いとしたい。
とにかくも今は、殿様の御ため、一刻も早く人吉城に戻らねばならない。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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