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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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山を下りていると、農具を脇に置いて座り込んでいる老人が見えた。
年が年だけに気になり、声を掛けたところ、草履の鼻緒が切れてしまったということだった。
齢のために目が悪く、うまく直せずにいたらしい。
「お武家様にこのようなことをして頂くわけには」
と、老人は渋っていたが、しつこく要求するとついに草履を寄越した。
鼻緒を直しながらふと彼に目をやると、袖から酷い槍傷の跡が覗いていた。
彼は俺の視線に気が付いたらしく、
「水俣の戦に参加したときの傷です」
と、さして気にしていないという風に説明した。
水俣の城では父が守将を務め、呼ばれていなかったが、俺も戦に赴いた。
どうやら、その傷のために腕の具合が悪くなり、畑を耕し続ける生活になったようだった。
足軽は、いくら良い働きをしても感状は貰えない。
家格も上がらなければ、石高が上がりより良い生活を営めるようになることもない。
ただ一時の利を得られるのみ、運悪ければ老人のように一生の不自由を強いられる。
「お殿様のために働けた、よい記念です」
農民の老人は、傷についてそう言っていた。
草履が直ると、老人は農作業用の籠から玉葱を取り出し、礼にと俺に手渡した。
籠と農具を背負って山を下りていく後ろ姿を眺め、しばらくそこに留まった。
かつて半農の足軽だった者が、あれほどの言葉を平然と口に出せるのである。
俺が目指す殿様の御ためとは、陰から役に立つ種のものばかりでなく、直接殿のためになり、お家を押し上げるようでなければならない、と再度認識させられた。
そうでなければ、彼のような者たち、足軽たちの上に立つ道理など無い。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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