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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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山道の隅で休憩をしながら、露袈裟のことを考えた。
彼女を裏切るような結果になってしまったことが悔やまれ、また不甲斐なかった。
露袈裟から見れば、反論もせずに椎葉を後にした俺はただの腰抜けだ。
もっとも、反論したところで弾正が思い直すとは考えられない。
小さな集落である、危険の芽は早々に間引くのが常道であろう。
そう己を納得させつつも、女ひとり連れ帰ることすらできなかった事実には、やはり自責を感じざるを得なかった。
すると、1匹の猫がこちらに近付いてきた。
食い物でも欲しがっているのかと思ったが、よく見ると紙のようなものをくわえていた。
猫を抱き上げ、口から紙を取り広げてみたところ、それは手紙であった。
「そなたならば猫も寄っていくでしょう」
差出人は露袈裟であった。
「詳細を兄から聞きました。此度の失礼は、父や兄が私を思ってしてくださったこと、どうかお許しいただきたいと存じます」
露袈裟は怒るどころか、相良の災難に心を痛めていた。
「ご奉公にお忙しいにも関わらず、私に会うために何日もお待ちくださった上、球磨のことを沢山教えてくださいました。女は黙って嫁ぐのが常の世に、優しく丁寧にお相手していただけたこと、誠に嬉しゅうございました」
そして最後には、目を疑うような一文が書かれていた。
「おくにのことが収まりましたら、どうかまた、椎葉に迎えにいらしてください」
女だてらに大胆だが、これまでの後悔が打ち消されんばかりの明言であった。
俺は猫に餌を食わせている横で返事を書き、再びそれをくわえさせて椎葉の集落のほうに走らせた。
殿様の御ため、手早くくにを安定させ、領主の嫁を迎えにゆきたいと思う。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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