所用あって城下町を歩いていると、最も関わり合いたくない人物が前から歩いてくるのを見掛けた。
竹下監物である。
深水一門に属し、なにかにつけて父や俺に反発の態度を示してきた。
父の隠居後はその姿を見ることもなく、どこかのくだらない戦に巻き込まれでもして亡き者になったのだと思っていたが、まだ存命のようであった。
顔も合わせたくなかったので、俺は真っ直ぐ進むつもりだった道を途中の小道で左に逸れた。
「竹下監物か」
城に戻って監物のことを殿に報告すると、殿は「厄介だ」と言わんばかりの表情になった。
「昔は頼蔵の側にいたけれど、いまは頼蔵から距離を置いて単独でなにかを企んでいるのかもしれないね」
監物は俺を執政に推す深水長智に反対し、長智の甥である頼蔵の推薦を強引に求めた。
しかし、結果として頼蔵を執政に据えることはできなかった。
これまではその不満が犬童家に向かっていたが、ともすれば相良のお家に向かう可能性もある。
殿は「頼蔵から距離を置いて」と言っているが、実際、頼蔵と監物の行動が無関係であると確認された事実はない。
恐らく、殿は頼蔵の関与の疑いを捨て切れないまでも、有能な頼蔵を失いたくないが故に監物と無関係であることを望み、明言を避けたのだろう。
もし、いま監物が領内で反乱を起こせば、島津が介入してくるに違いない。
そうなれば、これまでの苦労は水泡に帰すだろう。
殿様の御ため、外交だけでなく、殿の願う「求磨郡内安全」にも力を注がねばならない。
今日は曇りがちながらも陽が差すほどには晴れ、まずまずの天気だった。
しかし、空に詳しい者が「雨が来る」と言うので、俺は殿を連れて梅の花見に出掛けた。
行き先は、人吉で最も梅を多く植えている梅園である。
花自体はまだ満開とは言えなかったが、それに近い咲き具合だった。
「いいね、春だね」
満開でなくとも殿は喜び、満足げに梅を観賞してくれた。
「この時期が良いものです。この梅の次には桜があります」
「桜餅か」
「いいえ、桜餅ではなく桜です」
「桜と言ったら桜餅だろ」
「…そうですね」
結局俺は根負けし、春の風流な楽しみはただの食欲に成り下がった。
が、帰り道、
「今年の花は小ぶりだけど、そのぶんひとつひとつが慎ましやかで綺麗だったね。来年も行こうな」
と、殿は今日初めて真面目に梅の感想を語った。
俺は殿様の御ため、
「ぜひご一緒させていただきます」
と答えた。
来年も、再来年も、そして殿の一生で最後に見る梅も、俺が供をしたいのである。
近頃は、朝夕は寒くとも昼間は過ごしやすい。
もう少々待てば梅も満開になるだろう。
と、午後、殿とそのような話になったので、
「では、梅が見頃になる頃、花見に参りますか」
と誘ってみた。
きっと黙っていても殿は花見に行きたいと言うであろうから、あえて先に切り出した。
それに、俺も行きたいという乗り気の姿勢を見せたほうが、殿もより気楽に足を運べると思ったのである。
俺の誘いに対し、殿は嬉しそうに「行こう」と頷いた。
殿様の御ためが、殿の言うことに従い付いてゆくことであるとは言うまでもないが、時にはたしなめ、時にはこちらから引っ張ってゆくこともまた大事な殿様の御ためである。
このことは、政治・軍事に限らず日常においても言えることだ。
「しかし、梅を見て美味そうだと言うのも殿ぐらいですね」
筆に墨を含ませながらそう言うと、殿は
「梅干しを思い出すからね」
と、それだけで唾液が出てきたようだった。
梅と聞くと、俺は梅干しより先に主家の家紋を思い出す。
待ちに待った手紙である。
どのような答えがあるのか、固唾を呑んで折り畳まれた書状を開いた。
「虎がキジ馬を腹の下に匿い、そのうしろには猿がいますね」
殿と深水頼蔵、俺の3人で1枚の絵を眺めた。
「虎は加藤清正殿、キジ馬は殿、猿は…」
頼蔵がそこまで言って詰まると、思わず俺と頼蔵は顔を見合わせた。
まさかこう表現してくるとは予想だにしていなかったからだ。
「そうか、この猿は猿に似ている秀吉さんか!」
殿の発言に俺は思わずむせそうになった。
「殿、そのことについては穏便に…」
ずれた眼鏡を直しながら、頼蔵が苦笑いを浮かべてそう言った。
清正は秀吉から我が子同然の特別扱いを受けているが、その恩に対して猿描写はないだろう。
「まあとりあえず、この返事から清正がこちらの味方をし、その上その背後には秀吉もついていることが改めて確認できましたね」
俺は話を本来の目的に戻し、大事な会議の雰囲気を元に戻そうとした。
「そうだね、しばらくこれで様子を見てみよう」
殿は扇子をぱちりと閉じて立ち上がった。
「頼蔵、下がっていいよ」
殿は頼蔵を下がらせ、俺を部屋に残した。
俺は眼下の城下町を眺める殿の近くに寄り、言葉を待った。
「よりあに、ここは落ちる」
表情ひとつ変えず、殿ははっきりとそう言った。
「お前もわかっていただろう。この盆地は決戦場になる。なにもかもが無くなる」
下を見ると、商売で賑わう町があった。
この城は、殿の先祖が遠く遠江からこの地に赴いたときから400年近く、形を変えつつここにある。
それが無くなれば、相良家の歴史そのものは無くなりはしないものの、一旦地に堕ちることになる。
「しかし殿、確実にそうなると決まったわけではありません」
俺は殿様の御ため、
「それは島津を待ち受けた場合です。まず清正を呼び、こちらから行けば戦場は薩摩となりましょう」
と、人吉が戦場にならない策を提案した。
「加藤さんを呼びつけるなんてできるのか」
「そのような傍若無人な交渉は、我々家臣の仕事です。時機が来た場合、必ず清正を頷かせてみせます」
これは腕の見せ所である。
不謹慎ではあるが、俺はそのときが待ち遠しい。
侍女は俺に気が付くと頭を下げ、そのまま俺のうしろを通り過ぎようとした。
「待て」
礼を言わねばならないということで頭が一杯だったからか、曲者を呼び止めるような威圧的な声になった。
それ故にか侍女は固まるように立ち止まり、ゆっくりこちらを向くと
「何でございましょうか」
と、まるで裁定を受けるような緊張した面持ちで俺を見た。
昨日と言い今日と言い、この態度が白けるのだ。
「昨日の饅頭は美味かった。礼を言う」
侍女は俺の言葉を理解するのに時間が必要だったようで、少しの間きょとんとしていた。
が、ようやく解すると、有難うございますと一礼してそそくさと廊下を小走りに去っていった。
いくら殿様の御ためと言えど、これほど徒労感を感じることはない。
しかし、殿様の御ためには耐え、相手によらず礼を果たす心を身に付けねばならない。