しかし、心境は複雑だった。
長居をされるとそれだけこちらの情報を知る機会を与えてしまうが、帰国させれば、こちらで知り得たすべてを義久に報告されてしまう。
こちら側にとってはどちらも不都合だった。
午後、頼蔵控えのもとで殿と覚兼が雑談を楽しんでいる頃、俺は自室でお家のためにはどうするべきかを考えていた。
だが、良案良策は浮かばず、焦りが募るばかりだった。
どれほどの時間が経ったのか、ふと気が付くと、そろそろ茶菓子を出さねばならない時間になっていた。
俺は台所に行き、予め準備されていた生のたい焼きを見て無性に焼きたくなった。
「やらせてくれ」と言い、台所の者が止める声にも耳を貸さず、たい焼きを延々と焼き続けた。
皿の上に狐色になったたい焼きが積まれ、台所に香ばしい匂いが満ち始めた頃、岡本頼氏殿が通り掛かった。
「頼兄殿、疲れているのですか」
頼氏殿には、俺が思い詰めているように見えたらしい。
「殿様の御ためになる方法が考え付かないのです」
俺は網の上のたい焼きを少し起こし、焼き加減を覗き込みながら言った。
「岡本殿も1匹如何ですか」
焼きたてを小皿に取り、頼氏殿に差し出した。
「ではおひとつ貰いますから、あとはここの者に任せて、一緒に休憩いたしましょう」
頼氏殿は、俺を引っ張って部屋に連れて行った。
俺が抱えていることがそう易々と言えないことであると察してくれた頼氏殿は、仕事上の日常的な問題の解決法をさり気なく話してくれた。
核心に触れることのないそのさり気なさが有り難かった。
頼氏殿が教えてくれたことを元にして、お家を守るための方法を考えようと思う。
廊下で雨空を見上げながら、覚兼は「雨が降ると川が心配になりますな」と呟いたあと、俺に向かって
「そう言えば川の堤防工事についての書類がありましたが、あれはいつ取り掛かる予定ですか」
と訊ねた。
「確定ではありませんが、春先には着工するつもりです」
覚兼は「そうですか」と頷いた。
「もしかすると、その際には我々も見学させていただくかもしれません。もちろん、詳細を殿に相談し、了解が得られた場合の話ですが」
白い息を吐きながら、義久の側近は表情ひとつ変えずに淡々とそう語った。
見学ではなく監視であろう。
こちらが大掛かりな工事に取り掛かることに対し、それに紛れて軍事的な行動に出ないか疑っているのだろう。
「我々はなにも致しません。殿はただ、領民の生活と安全のために堤防を築こうとされているだけです」
「それは十分心得ております」
さらに俺は殿様の御ため、
「先日の先鋒のことやこの工事のことなど、あなたは本来ならば殿に伝えるべきことを殿に伝えず、私に伝えます。これは殿を殿と見なしていないように思われるのです」
と、近頃思っていた覚兼の無礼な行いを指摘した。
すると、
「私は、当家の傘下であるあなた方が、私の殿を殿と見なしていないと考えているのです」
覚兼は真顔でこう言った。
これが覚兼の本音だった。
覚兼はやはり、相良と加藤の繋がりに勘付いていた。
領内の地形や町家の並びなどを、いずれは敵方に回る人物には見せたくなかったのだが、もちろん断ることなどできなかった。
馬をゆっくりと歩かせ、町から農村に移りつつあるときには太陽が真南より少し西に傾いていた。
「昼にしますか」
覚兼が頷いたので馬から降り、座るのに丁度良さそうな石に風呂敷を掛けて彼の席を作った。
竹の皮に包んだ握り飯と竹筒の水を先に手渡し、俺は2頭の馬を適当な木に繋いだ。
幸い今日は寒さが和らいだので、外での食事はむしろ心地よいほどであった。
「水に恵まれ、良い土地ですな」
城下町を回ってからは球磨川の上流伝いに歩いてきた。
昼の休憩を取った場所は道の都合上川から離れていたため、川は見えないが水の流れは聞こえた。
「山に囲まれているぶん陸路は不便でしょうが、この球磨川の流れに乗れば移動は速やかになりましょうな」
「それは随分と効率が違います」と相槌を打つと、覚兼は
「それを逆手にとっていただきたい」
と言った。
「私は、加藤清正が攻めて来た折にはぜひあなた方に先鋒を務めていただきたいと思っております。その際には義弘様にも付いていただくでしょう」
俺は危うく水を噴き出しかけた。
「そのような重要な事柄については、殿も同席の上改めてお聞きしたく思います」
あまりに唐突で重要すぎる告白に動転したのか、俺は「そのような」の「そ」を8度ほど繰り返していた。
覚兼は笑い、
「慌てなさらないでください。あなたらしくもない」
と言ってすぐに表情を引き締めた。
「この地形を熟知したあなた方ならば、効率の良い攻め方も時間稼ぎもできるだろうと考えただけです。私個人の私見であり義久様のお考えではありませんから、殿様のお耳に入れるほどのことではありません」
覚兼は竹筒に口をつけた。
俺は「はい」と呟くように言うことしかできなかった。
城に戻ったのは日が暮れる寸前で、夕食まで部屋でくつろぐよう覚兼に勧め、俺は自室に帰った。
明かりをつけ、炬燵に入ると覚兼の言葉がよみがえった。
先鋒を務めることは名誉でもあるが、同時に危険も大きい。
義弘を付けるということは即ち監視であり、当方の出方を信用していない証拠である。
この場合の先鋒とは、名誉より捨て駒と言ったほうが正しいだろう。
さらに仮に勢力圏の境界にある相良家がそのような扱いを受けたとしも、境界一帯の地の利を知る者が前に出たというありふれた論理でごまかされ、島津が他家の非難を受けることも無い。
「覚兼個人の私見」。
この発言の真偽が要点である。
義久の考えを覚兼が地形の話と絡み合わせて「私見」だと作り上げた可能性も無きにしも非ずだからだ。
しかし、わからない。
どうも、俺は一昨日覚兼に会ったときから彼に振り回されているように思われてならない。
上井覚兼は朝から殿の部屋に入り浸り、城下の町家に関する書類や、頼蔵がまとめた会計記録等の内政資料を次々に要求し、閲覧した。
もはや見舞いのための訪問という隠れ蓑は脱ぎ捨てたようである。
思い返せば、今朝覚兼を殿の部屋に案内するために彼の部屋に赴いた際、表情に昨日のような柔和さが見られなかった。
覚兼は日が暮れるまでひたすら資料に目を通し続け、殿と頼蔵、俺はそれに付き合わされた。
夕食前になり、一旦覚兼が部屋に戻るのでその供をしていると、
「すこし庭を拝見してもよろしいですかな」
と遠目に見える庭を眺めて言った。
俺はそれを承諾し、草履を持って来させて廊下から降りた。
松明の明かりで輪郭不明瞭に浮かび上がった庭は見慣れたものだが、共にいる人間が違うと新鮮な印象を受けた。
「こちらの殿様は人当たりがよく、付き合いやすい方ですね」
小さな頃からそうだった、と言うと、覚兼は確かに殿が薩摩にいたときも愛想のいい子供だったと返した。
「しかし、あの笑顔のために思考が読めないこともしばしばです。それは私があの方とあまり心を通じ合える間柄ではないからでしょう」
松明の炎が小さく弾けるような音を立てた。
「ですが、あの方の最も近くに仕えているあなたなら、まるで自分のことのように理解することができるのでないでしょうか」
覚兼は意味深な笑みをこちらに向けた。
「私は殿のご意向に沿い、必要とあらば諌めさせていただくだけです。自分の意のままに殿を操っていると申されるのは甚だ心外です」
そのようなことは申しておりません、と覚兼が手を軽く振って否定した。
「私は薩摩でもあなたに幾度かお会いさせていただきましたが、そのように相手の懐に素早く刃を向けるような姿勢は油断ならないと思いました」
覚兼はそう言い、「寒い中お付き合いさせて申し訳ありませんでした」と軽く頭を下げた。
俺は彼に妙な発言について問いただしたかったが、覚兼が夕食に来るのを待っている殿様の御ため、諦めた。
島津義久の側近である上井覚兼がやって来たのだ。
もちろん事前の連絡は無く、開口一番に「会いたい」と名前を出された殿と言えば、うたた寝をしていた。
部屋に転がり込んで来た者から報告を受けた俺は、慌てて城の入口まで降りて覚兼を迎えた。
その間に深水頼蔵が殿を起こし、身支度を整え直させた。
応接間で殿と面会した覚兼は、前置き代わりのように突然の訪問を詫び、今回の訪問の理由を述べ始めた。
「主君義久の命により、冬の寒い最中、健やかにお過ごしであるか見舞いに来た」そうであるが、その裏にあるほんとうの意味は「異心なきことを確認しに来た」が精々であろう。
「そうか、遠いところからわざわざありがとう」
殿は心から嬉しそうな笑顔で言った。
この持ち前の愛想の良さが、緊張している場の空気を和らげていた。
昼が近かったこともあり、場はすぐに昼食会に移った。
殿は人の機嫌を取るのが上手い。
覚兼を冗談で笑わせたり、相手の好みに合う話題を繰り出しては、話が途切れて気まずくならぬよう善処していた。
夕方、覚兼に使用させる部屋に案内していたところ、覚兼が突然妙なことを言い始めた。
「犬童殿、来年の干支はなにでしたかな」
「今年が丑ですから、来年は寅でしょう」
俺が答えると、「あぁそうでしたな」と軽く握った拳を手の平に当てた。
「うちの殿は虎が嫌いでしてな。虎を描いた屏風が屋敷にあれば、直ちに売り払うほどです。こちらの殿様は如何ですか」
少し先を歩いているために俺には覚兼の顔は見えないが、彼は俺の表情や挙動をつぶさに観察していただろう。
「殿は虎には興味がありません。キジ馬ばかりです」
「左様ですか。確かに、殿様からいただいた年賀状にはキジ馬が描かれていましたな」
覚兼はその後、殿の描画の才を褒めていた。
覚兼はきっと、干支の寅と加藤清正の幼名である虎之助を掛け合わせていたに違いない。
島津義弘は清正に好意的であるが、義久は清正を秀吉の勢力の最南端部と見て敵意を持っている。
その義久の側近である上井覚兼が来たのだから、今回は相良が清正と手を結んでいないかを確認するための来訪と判断してもまず間違いは無いだろう。
掛け合わせを以て相手が気づかぬように実態を探ろうと、またあえて真意露わな掛け合わせで目的を告げ、相良に釘を刺そうとも、その程度で屈するような当家ではない。
殿様の御ため、覚兼を無収穫で薩摩に帰すよう働かねばならない。