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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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今日は覚兼が領内を見て回りたいと言ったので、俺が供をして城下町から町外れの農村まで案内した。
領内の地形や町家の並びなどを、いずれは敵方に回る人物には見せたくなかったのだが、もちろん断ることなどできなかった。
馬をゆっくりと歩かせ、町から農村に移りつつあるときには太陽が真南より少し西に傾いていた。
「昼にしますか」
覚兼が頷いたので馬から降り、座るのに丁度良さそうな石に風呂敷を掛けて彼の席を作った。
竹の皮に包んだ握り飯と竹筒の水を先に手渡し、俺は2頭の馬を適当な木に繋いだ。
幸い今日は寒さが和らいだので、外での食事はむしろ心地よいほどであった。
「水に恵まれ、良い土地ですな」
城下町を回ってからは球磨川の上流伝いに歩いてきた。
昼の休憩を取った場所は道の都合上川から離れていたため、川は見えないが水の流れは聞こえた。
「山に囲まれているぶん陸路は不便でしょうが、この球磨川の流れに乗れば移動は速やかになりましょうな」
「それは随分と効率が違います」と相槌を打つと、覚兼は
「それを逆手にとっていただきたい」
と言った。
「私は、加藤清正が攻めて来た折にはぜひあなた方に先鋒を務めていただきたいと思っております。その際には義弘様にも付いていただくでしょう」
俺は危うく水を噴き出しかけた
「そのような重要な事柄については、殿も同席の上改めてお聞きしたく思います」
あまりに唐突で重要すぎる告白に動転したのか、俺は「そのような」の「そ」を8度ほど繰り返していた。
覚兼は笑い、
「慌てなさらないでください。あなたらしくもない」
と言ってすぐに表情を引き締めた。
「この地形を熟知したあなた方ならば、効率の良い攻め方も時間稼ぎもできるだろうと考えただけです。私個人の私見であり義久様のお考えではありませんから、殿様のお耳に入れるほどのことではありません」
覚兼は竹筒に口をつけた。
俺は「はい」と呟くように言うことしかできなかった。
城に戻ったのは日が暮れる寸前で、夕食まで部屋でくつろぐよう覚兼に勧め、俺は自室に帰った。
明かりをつけ、炬燵に入ると覚兼の言葉がよみがえった。
先鋒を務めることは名誉でもあるが、同時に危険も大きい。
義弘を付けるということは即ち監視であり、当方の出方を信用していない証拠である。
この場合の先鋒とは、名誉より捨て駒と言ったほうが正しいだろう。
さらに仮に勢力圏の境界にある相良家がそのような扱いを受けたとしも、境界一帯の地の利を知る者が前に出たというありふれた論理でごまかされ、島津が他家の非難を受けることも無い。
「覚兼個人の私見」。
この発言の真偽が要点である。
義久の考えを覚兼が地形の話と絡み合わせて「私見」だと作り上げた可能性も無きにしも非ずだからだ。
しかし、わからない。
どうも、俺は一昨日覚兼に会ったときから彼に振り回されているように思われてならない。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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