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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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そろそろ正午になるかという頃、にわかに城内が沸き立った。
島津義久の側近である上井覚兼がやって来たのだ。
もちろん事前の連絡は無く、開口一番に「会いたい」と名前を出された殿と言えば、うたた寝をしていた。
部屋に転がり込んで来た者から報告を受けた俺は、慌てて城の入口まで降りて覚兼を迎えた。
その間に深水頼蔵が殿を起こし、身支度を整え直させた。
応接間で殿と面会した覚兼は、前置き代わりのように突然の訪問を詫び、今回の訪問の理由を述べ始めた。
「主君義久の命により、冬の寒い最中、健やかにお過ごしであるか見舞いに来た」そうであるが、その裏にあるほんとうの意味は「異心なきことを確認しに来た」が精々であろう。
「そうか、遠いところからわざわざありがとう」
殿は心から嬉しそうな笑顔で言った。
この持ち前の愛想の良さが、緊張している場の空気を和らげていた。
昼が近かったこともあり、場はすぐに昼食会に移った。
殿は人の機嫌を取るのが上手い。
覚兼を冗談で笑わせたり、相手の好みに合う話題を繰り出しては、話が途切れて気まずくならぬよう善処していた。
夕方、覚兼に使用させる部屋に案内していたところ、覚兼が突然妙なことを言い始めた。
「犬童殿、来年の干支はなにでしたかな」
「今年が丑ですから、来年は寅でしょう」
俺が答えると、「あぁそうでしたな」と軽く握った拳を手の平に当てた。
「うちの殿は虎が嫌いでしてな。虎を描いた屏風が屋敷にあれば、直ちに売り払うほどです。こちらの殿様は如何ですか」
少し先を歩いているために俺には覚兼の顔は見えないが、彼は俺の表情や挙動をつぶさに観察していただろう。
「殿は虎には興味がありません。キジ馬ばかりです」
「左様ですか。確かに、殿様からいただいた年賀状にはキジ馬が描かれていましたな」
覚兼はその後、殿の描画の才を褒めていた。
覚兼はきっと、干支の寅と加藤清正の幼名である虎之助を掛け合わせていたに違いない。
島津義弘は清正に好意的であるが、義久は清正を秀吉の勢力の最南端部と見て敵意を持っている。
その義久の側近である上井覚兼が来たのだから、今回は相良が清正と手を結んでいないかを確認するための来訪と判断してもまず間違いは無いだろう。
掛け合わせを以て相手が気づかぬように実態を探ろうと、またあえて真意露わな掛け合わせで目的を告げ、相良に釘を刺そうとも、その程度で屈するような当家ではない。
殿様の御ため、覚兼を無収穫で薩摩に帰すよう働かねばならない。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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