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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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上井覚兼は朝から殿の部屋に入り浸り、城下の町家に関する書類や、頼蔵がまとめた会計記録等の内政資料を次々に要求し、閲覧した。

もはや見舞いのための訪問という隠れ蓑は脱ぎ捨てたようである。

思い返せば、今朝覚兼を殿の部屋に案内するために彼の部屋に赴いた際、表情に昨日のような柔和さが見られなかった。

覚兼は日が暮れるまでひたすら資料に目を通し続け、殿と頼蔵、俺はそれに付き合わされた。

夕食前になり、一旦覚兼が部屋に戻るのでその供をしていると、

「すこし庭を拝見してもよろしいですかな」

と遠目に見える庭を眺めて言った。

俺はそれを承諾し、草履を持って来させて廊下から降りた。

松明の明かりで輪郭不明瞭に浮かび上がった庭は見慣れたものだが、共にいる人間が違うと新鮮な印象を受けた。

「こちらの殿様は人当たりがよく、付き合いやすい方ですね」

小さな頃からそうだった、と言うと、覚兼は確かに殿が薩摩にいたときも愛想のいい子供だったと返した。

「しかし、あの笑顔のために思考が読めないこともしばしばです。それは私があの方とあまり心を通じ合える間柄ではないからでしょう」

松明の炎が小さく弾けるような音を立てた。

「ですが、あの方の最も近くに仕えているあなたなら、まるで自分のことのように理解することができるのでないでしょうか」

覚兼は意味深な笑みをこちらに向けた。

「私は殿のご意向に沿い、必要とあらば諌めさせていただくだけです。自分の意のままに殿を操っていると申されるのは甚だ心外です」

そのようなことは申しておりません、と覚兼が手を軽く振って否定した。

「私は薩摩でもあなたに幾度かお会いさせていただきましたが、そのように相手の懐に素早く刃を向けるような姿勢は油断ならないと思いました」

覚兼はそう言い、「寒い中お付き合いさせて申し訳ありませんでした」と軽く頭を下げた。

俺は彼に妙な発言について問いただしたかったが、覚兼が夕食に来るのを待っている殿様の御ため、諦めた。

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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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