上井覚兼は朝から殿の部屋に入り浸り、城下の町家に関する書類や、頼蔵がまとめた会計記録等の内政資料を次々に要求し、閲覧した。
もはや見舞いのための訪問という隠れ蓑は脱ぎ捨てたようである。
思い返せば、今朝覚兼を殿の部屋に案内するために彼の部屋に赴いた際、表情に昨日のような柔和さが見られなかった。
覚兼は日が暮れるまでひたすら資料に目を通し続け、殿と頼蔵、俺はそれに付き合わされた。
夕食前になり、一旦覚兼が部屋に戻るのでその供をしていると、
「すこし庭を拝見してもよろしいですかな」
と遠目に見える庭を眺めて言った。
俺はそれを承諾し、草履を持って来させて廊下から降りた。
松明の明かりで輪郭不明瞭に浮かび上がった庭は見慣れたものだが、共にいる人間が違うと新鮮な印象を受けた。
「こちらの殿様は人当たりがよく、付き合いやすい方ですね」
小さな頃からそうだった、と言うと、覚兼は確かに殿が薩摩にいたときも愛想のいい子供だったと返した。
「しかし、あの笑顔のために思考が読めないこともしばしばです。それは私があの方とあまり心を通じ合える間柄ではないからでしょう」
松明の炎が小さく弾けるような音を立てた。
「ですが、あの方の最も近くに仕えているあなたなら、まるで自分のことのように理解することができるのでないでしょうか」
覚兼は意味深な笑みをこちらに向けた。
「私は殿のご意向に沿い、必要とあらば諌めさせていただくだけです。自分の意のままに殿を操っていると申されるのは甚だ心外です」
そのようなことは申しておりません、と覚兼が手を軽く振って否定した。
「私は薩摩でもあなたに幾度かお会いさせていただきましたが、そのように相手の懐に素早く刃を向けるような姿勢は油断ならないと思いました」
覚兼はそう言い、「寒い中お付き合いさせて申し訳ありませんでした」と軽く頭を下げた。
俺は彼に妙な発言について問いただしたかったが、覚兼が夕食に来るのを待っている殿様の御ため、諦めた。