畳に寝転がって家臣の名簿をめくっていた殿が突然呟いた。
「それは有難うございます」
俺はとりあえず礼を言いつつも、なにか下心でもあるのかと不可解な気分になった。
「犬は忠義に厚いって言うし、僕にとってよりあには頼りになるお兄さんみたいだしね」
殿は起き上がって名簿を棚にしまい、俺の隣に座った。
「長智みたいに、秀吉さんに側に来てくれって言われたら、行く?」
「行くわけがないでしょう」
俺は筆を置き、姿勢を正して答えた。
「私にとっての殿は頼房様だけ。私はその殿様の御ためにしか働きません」
殿は「うん」と頷いた。
初代長頼公が、築城時に三日月模様の石が出土したことを記念して創建したと言われている。
城郭から外れているのは、広く領民にも参詣できるよう気を配ったからだ、と以前神主から聞いた。
今日は深水頼蔵と共にその神社に参ってきた。
多くの人が参詣に訪れており、境内は賑やかだった。
社殿は地味な造りで、一般的な神社とさして変わらないが、その神社の特色は絵馬にある。
(城下絵師作)
キジ馬型の絵馬で、キジ馬(ま)という。
隅には赤字で「開運キジ馬」、その横には「相良神社」と書かれた相良神社特有の絵馬である。
境内にある絵馬掛には、様々な願い事を書き込んだキジ馬が奉納されていた。
「私どもも書きませんか」
俺がキジ馬を眺めていると、どこかに行っていた頼蔵が2枚のキジ馬を持って戻ってきた。
新年早々お家にとって危ない事態が生じたので、仕切り直しにこのようなものも良いだろう、と思い、俺は有り難く書かせてもらうことにした。
空白に大きく殿の御ためと書き、絵馬掛に掛けた。
「誰が書いたか、すぐに分かりますね」
頼蔵は笑い、同じく書き上げたキジ馬を掛けた。
「視力向上」。
「お前のも、誰が書いたかすぐに分かる」
俺がそう言うと、頼蔵は眼鏡の奥の目を細めてまた面白そうに笑った。
「どちらが先に叶いますかね」
頼蔵が子供のように浮かれてこう言った。
「俺が先だ」
俺はそう答え、「そろそろ戻るぞ」と頼蔵を促した。
休日の今日の雪は大したことなく、午後には溶けて消えていた。
俺はしばし、ある人に出す手紙の内容にあぐんでいたが、ついに筆を取った。
もちろん、上井覚兼宛てである。
無事に薩摩に帰着したことを願うことから始まり、もし北から危うい情報が入ってきた場合、すぐにそちらにお伝えすると忠を誓っておいた。
白々しいと思われるだろうが、ここで開き直って勝手に戦を始めても、連絡を受けた清正が来るまでに全滅は必至である。
なんと思われようが、大人しく臣従する姿勢を見せたほうが触りは無い。
予め文面は熟考してあったので、覚兼宛ての手紙には時間も掛からず仕上がった。
それを丁寧に折ってから、もう1枚の紙を机の上に置いた。
次は相良長誠様宛てである。
長誠様には覚兼の旅の行き先が伏せられている可能性が無きにしも非ずであるから、せめて状況を知り、もしものときに覚悟していただくためだ。
あの方は聡い。
近況としてこちらに上井覚兼が来たことを告げれば、その背景になにが起こっているか即座に判断できるだろう。
「うん、これでいいよ」
殿に文面を見せて内容について伺うと、殿は頷いた。
「機会は作るより、待つほうがいい」
殿様の御ため、俺は町に下り、飛脚に2通の手紙を託した。
今朝は係の者が起こしに来るまで寝ようと思っていたのだが、障子の隙間から吹き込む風の冷たさのために夜明け頃に目が覚めた。
尋常ではない冷たさだったので、もしやと俺は上着を羽織り、障子を開けた。
大雪だった。
すでに城の者が外に出、雪かきをしていた。
元日にも雪が積もっていたが、今日の雪はあれとは比べ物にならない、脛が埋まるほどの深さだった。
寒いので寝直すことはできないだろうと考えた俺は、着物を着替え、階段を下りた。
雪かきをしている者は5人で、ろくな防寒もせずに、一所懸命に雪を除けて通路を作っていた。
「お早うございます」
俺の姿に気が付いた1人が挨拶すると、残りの4人も口々に「お早うございます」と頭を下げた。
冷たい雪を素手で扱っているので、皆手が指先まで赤い。
俺は「ご苦労」と言って台所に向かった。
「火はもう入っているのか」
台所を覗き込んでそう訊ねると、「入っています」との返事が返ってきた。
俺は、湯を沸かして茶を5杯分淹れて欲しいと頼んだ。
「5杯分ですね、少々お待ちください」
その者は薬缶を火にかけ、朝食に使う葱を刻みながら俺の雑談の相手になった。
どうやら、彼らの料理が薩摩から来た覚兼の口に合ったかどうかが気になっていたようである。
豆腐の味噌漬けが特にお気に召した様子だった、と言うと、
「実はあれは五木から来た新入りの実家の味なのですが、薩摩のお偉い方にそのように思って頂けたと伝えたら、飛び上がって喜ぶでしょうね」
と、彼自身もたいへん嬉しそうだった。
湯呑みを5つ載せた盆を持って、俺は再び雪かきをしている5人のところに戻った。
「皆が登城して来るまで、まだ時間はある。熱い茶で休憩しないか」
俺は彼らが茶を飲む様子を眺めながら、頼氏殿に言われた言葉をまた思い出していた。
「大量の仕事に忙しなく対応しているときや、困難な仕事にぶつかったときは、自分ひとりが仕事をしているのではないと思うと良い。そうすれば随分気持ちが楽になる」。
仕事の内容は違えど、皆それぞれが己の職務に全力を尽くしている。
その様を見て、今後の仕事に対する活力を得ることができた。
その後、適当な時刻になったので殿の部屋に朝の挨拶に行ってみると、殿はまだ布団にくるまっていた。
しかもまだ寝ていた。
俺は布団を剥いで起こそうとしたが、殿様の御ため、
「早く起きなければ朝食の味噌汁が冷めてしまいますよ」
と言うと、殿は目を開けて起き上がった。
寝癖が酷かった。
「お世話になりましたな」
覚兼はそう言い残し、馬に跨って球磨の地を後にした。
たった6日間の滞在だったが、ひと月以上共にいたような濃厚な時間に感じられた。
覚兼を見送ってから、俺は自室に戻り炬燵に入った。
「頼兄殿」
障子に深水頼蔵の影が映った。
「殿と今後について話し合いたいと思いますので、ご参加ください」
その声で俺は炬燵から出、頼蔵と殿の部屋に向かった。
殿様の御ためになれるような働きを見せられるかどうか自信は無かったが、これが俺の仕事であり、また仕事に取り組まないことには成果もなにも出てこない。
城勤めに加わった日に頼氏殿から教えられ、さらに昨日再び言われた言葉、「仕事はとにかくやってみることだ」を実践することに始まりがある、と繰り返し考えながら、殿の部屋に入った。