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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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午後、殿が「話がある」と言って俺を部屋に呼んだ。
「お呼びですか」
俺が部屋に入るや否や、殿は嬉しそうに紙の束を取り出した。
促されて机の前に座り、殿が差し出す紙に書いてあることを読んだ。
そこにあったのは俺の字だった。
「加藤さんのところに行ったとき、川の堤防工事について教えてもらっただろ。それを春から始めたいんだ」
殿が言うには、春になる頃には、節約して浮いた経費で、夏の嵐で崩れた崖等の工事に要した資金を十分まかなえるようだ。
「まだこれからも経費削減を続けていけば、堤防工事の費用も捻り出せるはずだと思うんだ」
よりあにはどう思う?と殿は俺に意見を求めた。
「梅雨に備えるためにも工事は始めなければなりませんが、城の経費を削るだけでは少々心許ないと思います。城下に金貸しがおりますから、それを利用するのは如何でしょうか」
「借金するの?」
殿は顔を曇らせ、「なんだか不安だなあ」と呟いた。
「もちろん借りすぎると利子が莫大になってしまいますが、綿密に計画した上でなら危険は少ないでしょう。その辺りを、経済に詳しい頼蔵に相談すると良いかと思われます」
「そうか。じゃ、頼蔵呼ぼうか」
殿は早速隣の間に控えている者に声を掛けようとしたが、俺が
「日曜日ですので、出掛けているようです」
と言うと、今日は日曜日だったの、と殿が驚いたように言った。
「せっかくの日曜日なのに、呼び出して悪かったね」
殿が俺に謝ったので、俺は「とんでもありません」と否定した。
殿様の御ためには、平日も日曜もないのだ。
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所用で城下に出掛けたところ、昼になったので知り合いが経営している料理屋に入った。
主人と新年の挨拶を交わし、案内された調理台の前の席に座った。
「上客さんがいらしたよ、お茶を出して差し上げなさい」
主人が奥に向かってそう言うと、「はい」と返事して彼の娘が盆を持って出てきた。
久し振りに顔を見たが、以前より随分大人らしい顔つきになっていた。
「ご注文はなにになさいますか」
俺があんまりじろじろと見たからか、娘は気恥ずかしそうだった。
献立表に書いてある日替わり定食を指して「これを頼む」と注文した。
久しく会ったので、主人には積もる話があったようだ。
最近の商売のこと、仲間から聞いためでたい話など、話題は尽きなかった。
その話の最中に、娘が突き出しとして「わさび蓮根」というものを出した。
「からしの代わりにわさびを詰めたものです」
美味しいですよ、と娘は言った。
聞いたところによると、近頃、巷では「わさび蓮根」なるものが流行しているらしい。
俺はまず一口食ってみた。
「…辛いことに変わりはない」
そう呟いて茶で流し込むと、娘は「犬童さんらしいご意見ですね」と笑った。
笑った顔も、大人っぽい品のある表情だった。
とても殿と同い年であるとは思えなかった。
帰り際、殿様の御ためにわさび蓮根を持って帰りたいので、売っている店を教えて欲しいと言うと、店にあるもので良ければ分けようとまで言ってくれた。
しかし、それでは申し訳ないので、せめて金を置いていくことで話がついた。
さっそく夕食時に殿にわさび蓮根を出すと、
「わさびでも美味しいね。酒に合いそうだ」
と喜んで食べていた。
果たして辛くないのだろうか、表情ひとつ変えずに噛り付いていた。
殿は今も、子供のような笑顔だった。
今日の朝食は普段の一汁一菜ではなく、七種粥であった。
白い飯の中に散らばる緑には季節の美しさがあった。
「今朝の七種粥、美味しかったね」
俺が殿の部屋に挨拶に行くなり、殿は満足そうな顔でそう言った。
「昔は『青臭い』と言って嫌っていましたのに」
俺は自分の仕事道具を取り出し、机の上に並べた。
「そうだったっけ」
扇子をぱちりと閉じ、殿は思い出すように左斜め上を見た。
「そうでしたよ」
幼い頃から食い意地が張り、嫌いなものなど無かった殿が唯一避けていたのが七種粥である。
機嫌をとらねばならない人物から七種粥を供された場合のために、仕方なく無理に食べさせていたものだ、と語った。
「そうかー、あんなに美味しいのに嫌いだったんだ。いま食べられるのはよりあにのおかげだね」
「滅相もありません。大人になればなるほど、嗜好は少なからず変わるものですから」
殿はまた扇子をぱちりと閉じた。
「年を取れば取るほど、その良さにますます気が付くこともある」
殿様の御ため、俺は
「仰るとおりです」
と言ったが、殿は昨日から熱でもあるのだろうか。
発言が真面目すぎる。

午後の休憩中、殿のところに届いた年賀状を見せてもらった。
加藤清正や島津義久をはじめ、地域の首長など様々な人物から送られてきていた。
それらに1枚ずつ目を通していると、島津家からのものが2枚もあることに気が付いた。
「島津義久と義弘から1枚ずつありますね」
一方は格式張った丁寧な書面で、もう一方は自由奔放、ある意味これが芸術かと思わせるものだった。
「島津さんはいつも別々に送ってくるよね」
殿は苦笑いした。
「でも義弘さんは長誠にも書かせてくれるから、別々のほうが嬉しいかもしれない」
殿はふと呟くようにそう言うと、机の上に広げていた年賀状から1枚を手に取った。
「あいつは1年でまた字が綺麗になった」
俺は殿が差し出す年賀状を受け取った。
確かに、義弘の年賀状には長誠様の字があり、それは去年のものより上達していた。
そこで俺は殿様の御ため
「では、兄の威厳を保つために書の勉強でも始めますか」
と申し出た。
「僕は字が上手くなるより、どうせなら手紙での駆け引きが上手くなるほうがいい」
殿は何気なくさらりと言ったようだったが、俺は新年早々いたく感銘を受けた。

今日は仕事始めの日だった。
初日から欠勤した者も無く、皆健康に新しい年の仕事を始められたようだ。
午後、自室で筆を走らせていると深水頼蔵がやって来た。
新年の挨拶は既に元日に済ませていたのだが、頼蔵はもう一度それを繰り返した。
仕方なく俺もそれに付き合い、「なにをしに来た」と訊いた。
「会計ですよ」
頼蔵はにこやかに答え、帳簿を出すよう求めた。
正月だからか、会計役が月初めに来ることをすっかり忘れていた。
俺は帳簿を差し出し、自分の仕事に戻った。
すると突然、頼蔵が妙な笑い声を立てた。
「そうですか、あなたも優しいことをするのですね」
頼蔵がなにに笑ったのかはわかっていた。
「甥と姪にお年玉をあげるなんて、よい叔父を務め上げていますね」
頼蔵はそう言いながら、会計帳簿に書き込みを始めた。
「親戚のために行動するのも、殿様の御ために繋がる」
照れ隠しは要りませんよ
俺は立ち上がり、頼蔵に新年初蹴りを入れた。
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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相良家筆頭家老
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