山道の隅で休憩をしながら、露袈裟のことを考えた。
彼女を裏切るような結果になってしまったことが悔やまれ、また不甲斐なかった。
露袈裟から見れば、反論もせずに椎葉を後にした俺はただの腰抜けだ。
もっとも、反論したところで弾正が思い直すとは考えられない。
小さな集落である、危険の芽は早々に間引くのが常道であろう。
そう己を納得させつつも、女ひとり連れ帰ることすらできなかった事実には、やはり自責を感じざるを得なかった。
すると、1匹の猫がこちらに近付いてきた。
食い物でも欲しがっているのかと思ったが、よく見ると紙のようなものをくわえていた。
猫を抱き上げ、口から紙を取り広げてみたところ、それは手紙であった。
「そなたならば猫も寄っていくでしょう」
差出人は露袈裟であった。
「詳細を兄から聞きました。此度の失礼は、父や兄が私を思ってしてくださったこと、どうかお許しいただきたいと存じます」
露袈裟は怒るどころか、相良の災難に心を痛めていた。
「ご奉公にお忙しいにも関わらず、私に会うために何日もお待ちくださった上、球磨のことを沢山教えてくださいました。女は黙って嫁ぐのが常の世に、優しく丁寧にお相手していただけたこと、誠に嬉しゅうございました」
そして最後には、目を疑うような一文が書かれていた。
「おくにのことが収まりましたら、どうかまた、椎葉に迎えにいらしてください」
女だてらに大胆だが、これまでの後悔が打ち消されんばかりの明言であった。
俺は猫に餌を食わせている横で返事を書き、再びそれをくわえさせて椎葉の集落のほうに走らせた。
殿様の御ため、手早くくにを安定させ、領主の嫁を迎えにゆきたいと思う。
彼女を裏切るような結果になってしまったことが悔やまれ、また不甲斐なかった。
露袈裟から見れば、反論もせずに椎葉を後にした俺はただの腰抜けだ。
もっとも、反論したところで弾正が思い直すとは考えられない。
小さな集落である、危険の芽は早々に間引くのが常道であろう。
そう己を納得させつつも、女ひとり連れ帰ることすらできなかった事実には、やはり自責を感じざるを得なかった。
すると、1匹の猫がこちらに近付いてきた。
食い物でも欲しがっているのかと思ったが、よく見ると紙のようなものをくわえていた。
猫を抱き上げ、口から紙を取り広げてみたところ、それは手紙であった。
「そなたならば猫も寄っていくでしょう」
差出人は露袈裟であった。
「詳細を兄から聞きました。此度の失礼は、父や兄が私を思ってしてくださったこと、どうかお許しいただきたいと存じます」
露袈裟は怒るどころか、相良の災難に心を痛めていた。
「ご奉公にお忙しいにも関わらず、私に会うために何日もお待ちくださった上、球磨のことを沢山教えてくださいました。女は黙って嫁ぐのが常の世に、優しく丁寧にお相手していただけたこと、誠に嬉しゅうございました」
そして最後には、目を疑うような一文が書かれていた。
「おくにのことが収まりましたら、どうかまた、椎葉に迎えにいらしてください」
女だてらに大胆だが、これまでの後悔が打ち消されんばかりの明言であった。
俺は猫に餌を食わせている横で返事を書き、再びそれをくわえさせて椎葉の集落のほうに走らせた。
殿様の御ため、手早くくにを安定させ、領主の嫁を迎えにゆきたいと思う。
PR
先日以降、毎日露袈裟に会って懇談している。
以前贈った木彫りのキジ馬もそれなりに気に入ったようで、なによりの経過である。
今日は、人吉ではこの時期になるとキジ馬幟を上げることを話した。
これは雛祭りと対なるもので、幟は男子の成長を祝い願うものである。
すでにキジ馬絵馬のことは話していたので、娘は
「球磨ではなんでもキジ馬なのですね」
と笑っていた。
なるほど好感触であった。
しかし、夕方、これまで築き上げて来たすべてが瓦解した。
薩摩に偵察に出ていた弾正の部下から、相良は信用できぬとの報告があったらしい。
上井覚兼だと直感した。
人吉ではおそらく堤防工事が始まっている。
かつて覚兼が言い渡した工事見学の申し出を頼蔵辺りが呑み、薩摩に連絡の書状を差し出したので、島津家が人数を出す手筈を整えているその場面を弾正の部下が見たに違いない。
故に、反加藤を掲げている相良が島津に厳重に監視されている実態に疑問が生じたのであろう。
早速弾正に呼び出され、この縁談は無かったことにし、以降金輪際露袈裟に近づくことは禁止となった。
周囲の武家の支配を受けていない椎葉の集落と言えど、相良と縁組し、大勢力の島津家に睨まれるなど一切御免である。
結局、日が暮れる前に那須家を追い出されるように出、再び山道を球磨に向かって歩くことになった。
なんの収穫もなく帰路についたのだが、露袈裟という娘がどのような気性であるかを知られただけでも良いとしたい。
とにかくも今は、殿様の御ため、一刻も早く人吉城に戻らねばならない。
以前贈った木彫りのキジ馬もそれなりに気に入ったようで、なによりの経過である。
今日は、人吉ではこの時期になるとキジ馬幟を上げることを話した。
これは雛祭りと対なるもので、幟は男子の成長を祝い願うものである。
すでにキジ馬絵馬のことは話していたので、娘は
「球磨ではなんでもキジ馬なのですね」
と笑っていた。
なるほど好感触であった。
しかし、夕方、これまで築き上げて来たすべてが瓦解した。
薩摩に偵察に出ていた弾正の部下から、相良は信用できぬとの報告があったらしい。
上井覚兼だと直感した。
人吉ではおそらく堤防工事が始まっている。
かつて覚兼が言い渡した工事見学の申し出を頼蔵辺りが呑み、薩摩に連絡の書状を差し出したので、島津家が人数を出す手筈を整えているその場面を弾正の部下が見たに違いない。
故に、反加藤を掲げている相良が島津に厳重に監視されている実態に疑問が生じたのであろう。
早速弾正に呼び出され、この縁談は無かったことにし、以降金輪際露袈裟に近づくことは禁止となった。
周囲の武家の支配を受けていない椎葉の集落と言えど、相良と縁組し、大勢力の島津家に睨まれるなど一切御免である。
結局、日が暮れる前に那須家を追い出されるように出、再び山道を球磨に向かって歩くことになった。
なんの収穫もなく帰路についたのだが、露袈裟という娘がどのような気性であるかを知られただけでも良いとしたい。
とにかくも今は、殿様の御ため、一刻も早く人吉城に戻らねばならない。
相変わらずすることもなく、昨日と同じく庭先に出ていると、猫が近寄って来た。
旅の最中はキジ馬ばかりだったので、懐かしく思い頭を撫でてみたところ、猫は気持ちの良さそうな鳴き声を出した。
嫌がらないのでその後も猫に構っていると、屋敷のほうから障子の開く音が聞こえた。
出てきたのは女で、それもかなりの美人である。
「猫が好きなのですか」
女は俺を見、そう問い掛けた。
「好ましいとは思います」
女に気付いたのか、猫は走り去った。
「露袈裟殿ですか」
「かく言うそなたは、相良殿が家臣、犬童頼兄殿ですね」
露袈裟は和やかに微笑み、部屋に上がるように言った。
父や兄を通さずに勝手に上がっても良いのか、と訊ねたが、娘は「構わぬ」と言い張った。
「父上や兄上からお話は伺いました。頼房殿に嫁ぐのですね」
「無理にとは申しません。すべて納得して頂いた上で、球磨にお越し頂きたいのです」
俺が型程度の謙遜を言うと、露袈裟は笑った。
「納得などと。私が球磨に赴きすべてを知るときには、既に縁組が成立しておりますでしょうに」
「それはご尤もです」
言いたいことははっきりと言う、確かに気の強い娘のようである。
その後、娘が殿について質問を挙げたので、それらに対して詳細に答えた。
露袈裟が「もうよい」と止めるまでそれは続き、俺は部屋から下がろうとした。
すると、
「なぜ今日ようやくそなたに会おうと思ったか、わかりますか」
と、娘は再び庭に出ようとする俺に訊ねた。
「それについては、私には理解できかねます」
「はじめのうちは突然の縁談に驚き、反抗の気持ちもありました。しかし、殿の側近という高い身分でありながら、自ら危険をおして私に会いに来てくださったという、そなたに会ってみたくなったのです」
露袈裟は穏やかに微笑みながら、そう答えた。
「殿様の御ためならば、山越え程度は易いこと。それよりも、本日あなたにお会いできて、誠に有意義でした」
俺は一礼し、入室時と同じように庭に退出した。
強気な目元も、笑うと穏やかであった。
旅の最中はキジ馬ばかりだったので、懐かしく思い頭を撫でてみたところ、猫は気持ちの良さそうな鳴き声を出した。
嫌がらないのでその後も猫に構っていると、屋敷のほうから障子の開く音が聞こえた。
出てきたのは女で、それもかなりの美人である。
「猫が好きなのですか」
女は俺を見、そう問い掛けた。
「好ましいとは思います」
女に気付いたのか、猫は走り去った。
「露袈裟殿ですか」
「かく言うそなたは、相良殿が家臣、犬童頼兄殿ですね」
露袈裟は和やかに微笑み、部屋に上がるように言った。
父や兄を通さずに勝手に上がっても良いのか、と訊ねたが、娘は「構わぬ」と言い張った。
「父上や兄上からお話は伺いました。頼房殿に嫁ぐのですね」
「無理にとは申しません。すべて納得して頂いた上で、球磨にお越し頂きたいのです」
俺が型程度の謙遜を言うと、露袈裟は笑った。
「納得などと。私が球磨に赴きすべてを知るときには、既に縁組が成立しておりますでしょうに」
「それはご尤もです」
言いたいことははっきりと言う、確かに気の強い娘のようである。
その後、娘が殿について質問を挙げたので、それらに対して詳細に答えた。
露袈裟が「もうよい」と止めるまでそれは続き、俺は部屋から下がろうとした。
すると、
「なぜ今日ようやくそなたに会おうと思ったか、わかりますか」
と、娘は再び庭に出ようとする俺に訊ねた。
「それについては、私には理解できかねます」
「はじめのうちは突然の縁談に驚き、反抗の気持ちもありました。しかし、殿の側近という高い身分でありながら、自ら危険をおして私に会いに来てくださったという、そなたに会ってみたくなったのです」
露袈裟は穏やかに微笑みながら、そう答えた。
「殿様の御ためならば、山越え程度は易いこと。それよりも、本日あなたにお会いできて、誠に有意義でした」
俺は一礼し、入室時と同じように庭に退出した。
強気な目元も、笑うと穏やかであった。
まだ娘の機嫌が直らないということで、今日も約束は延期された。
気長に待つことには慣れている。
その上、椎葉の美味い茶をすすりながら美しい山岳重畳たる山々を眺めることができ、休養にもなった。
「犬童殿。妹がご迷惑をお掛けし、たいへん申し訳ありません」
庭に出て景色を眺めていると、屋敷のほうから声を掛けられた。
「息子の那須久太郎と申します」
そう言って会釈したのは、弾正の嫡男だった。
彼に近寄って挨拶したところ、確かに露袈裟の兄だろうと感じた。
美しいと噂される妹の兄らしく、彼もまた整った顔立ちだったのである。
あの厳めしい父親とは少しも似ておらず、おそらく母親の血が濃く出たのだろう。
「露袈裟はどうも我が儘の気があるようで、気が済むまではどう説得しても聞く耳すら持ちません。球磨から険しい山々を越えていらしてくださったと言うのに、誠に申し上げようもありません」
兄は再び頭を下げ、俺は滅相もないと久太郎をなだめた。
「突然、遠方のくにへ嫁げと言われたのです。それは大いに困惑することでしょう」
領内の武家に縁づいた姉上でさえ、数日は思い悩んだものである。
それを兄に話すと、
「左様ですか。そうお考えいただけると、私共も救われる思いが致します」
と、またもや頭を下げた。
妹が気の強い性格ならば、兄は少々小心なのかも知れない。
「それにしても、私もいつかは相良の殿様にお会いしたいものです。いや、こうやって殿様の側近を務めておられる犬童殿にお会いできただけでも、舞い上がるほどに嬉しい」
「そのお言葉、殿にお伝えしておきます」
そう言うと久太郎は本当に舞い上がり、真の武家とはやら誠の武士とはやら、熱心に語り始めた。
彼は父が地位を築いた後に元服し、ろくに戦に出たことがないそうである。
それ故にか、戦における美だとか義だとか論じていたが、この波乱の世の中で生き延びるには、力あるものは力で、力ないものは謀で身を守らねばならない。
優先すべきは主家の存続である。
殿様の御ためには、格好に構わず無慈悲であることも厭わぬ心持ちであらねばならない。
気長に待つことには慣れている。
その上、椎葉の美味い茶をすすりながら美しい山岳重畳たる山々を眺めることができ、休養にもなった。
「犬童殿。妹がご迷惑をお掛けし、たいへん申し訳ありません」
庭に出て景色を眺めていると、屋敷のほうから声を掛けられた。
「息子の那須久太郎と申します」
そう言って会釈したのは、弾正の嫡男だった。
彼に近寄って挨拶したところ、確かに露袈裟の兄だろうと感じた。
美しいと噂される妹の兄らしく、彼もまた整った顔立ちだったのである。
あの厳めしい父親とは少しも似ておらず、おそらく母親の血が濃く出たのだろう。
「露袈裟はどうも我が儘の気があるようで、気が済むまではどう説得しても聞く耳すら持ちません。球磨から険しい山々を越えていらしてくださったと言うのに、誠に申し上げようもありません」
兄は再び頭を下げ、俺は滅相もないと久太郎をなだめた。
「突然、遠方のくにへ嫁げと言われたのです。それは大いに困惑することでしょう」
領内の武家に縁づいた姉上でさえ、数日は思い悩んだものである。
それを兄に話すと、
「左様ですか。そうお考えいただけると、私共も救われる思いが致します」
と、またもや頭を下げた。
妹が気の強い性格ならば、兄は少々小心なのかも知れない。
「それにしても、私もいつかは相良の殿様にお会いしたいものです。いや、こうやって殿様の側近を務めておられる犬童殿にお会いできただけでも、舞い上がるほどに嬉しい」
「そのお言葉、殿にお伝えしておきます」
そう言うと久太郎は本当に舞い上がり、真の武家とはやら誠の武士とはやら、熱心に語り始めた。
彼は父が地位を築いた後に元服し、ろくに戦に出たことがないそうである。
それ故にか、戦における美だとか義だとか論じていたが、この波乱の世の中で生き延びるには、力あるものは力で、力ないものは謀で身を守らねばならない。
優先すべきは主家の存続である。
殿様の御ためには、格好に構わず無慈悲であることも厭わぬ心持ちであらねばならない。
朝、弾正に挨拶に伺うと、娘には会えないと言い渡された。
「露袈裟に嫁入りの件を伝えたところ、不機嫌になって部屋に閉じこもってしまっておる。誠に申し訳ないが、娘の気が向くまで待ってもらえないか」
父親に勝手に嫁ぎ先を決められた、娘なりの反抗なのであろう。
「承知致しました。露袈裟殿が会ってもよいと申されるまで、私をここに置いて頂ければ幸いです」
無理を強いて、相良の印象を悪くするわけにもいかない。
俺は敢えて謙虚にそう答え、会えるようになれば知らせて欲しい旨を頼んだ。
「弾正殿、姫にこれをお渡し願えますか」
懐から小さな木彫りのキジ馬を取り出し、弾正に差し出した。
「球磨の玩具です。見知らぬ上に戦の絶えぬ土地に嫁げと、難しい願いをさせて頂いております。しかし、球磨はこのような玩具もある良いくにであることも、露袈裟殿には知って頂きたいのでございます」
木彫りのキジ馬は、若い娘にも好かれていることを深水頼蔵から聞いていた。
「わかった。有り難く頂戴し、露袈裟に渡しておく」
弾正はキジ馬を受け取り、「きっと奴も気に入るであろう」と、俺に申し訳なさそうな笑みを向けた。
殿様の御ため、キジ馬で娘をその気にできればこの上ないことである。
「露袈裟に嫁入りの件を伝えたところ、不機嫌になって部屋に閉じこもってしまっておる。誠に申し訳ないが、娘の気が向くまで待ってもらえないか」
父親に勝手に嫁ぎ先を決められた、娘なりの反抗なのであろう。
「承知致しました。露袈裟殿が会ってもよいと申されるまで、私をここに置いて頂ければ幸いです」
無理を強いて、相良の印象を悪くするわけにもいかない。
俺は敢えて謙虚にそう答え、会えるようになれば知らせて欲しい旨を頼んだ。
「弾正殿、姫にこれをお渡し願えますか」
懐から小さな木彫りのキジ馬を取り出し、弾正に差し出した。
「球磨の玩具です。見知らぬ上に戦の絶えぬ土地に嫁げと、難しい願いをさせて頂いております。しかし、球磨はこのような玩具もある良いくにであることも、露袈裟殿には知って頂きたいのでございます」
木彫りのキジ馬は、若い娘にも好かれていることを深水頼蔵から聞いていた。
「わかった。有り難く頂戴し、露袈裟に渡しておく」
弾正はキジ馬を受け取り、「きっと奴も気に入るであろう」と、俺に申し訳なさそうな笑みを向けた。
殿様の御ため、キジ馬で娘をその気にできればこの上ないことである。