事の発端はこの一言であった。
「よりあに、お茶ってどうやって点てるんだっけ?」
筆を走らせていた俺は、思わず撥ねの部分を必要以上に撥ねてしまった。
茶道は決して、風流な文化人だけのものではなく、大名以下武士全員がたしなみとするものである。
これを知らないとなると、常識知らずとして笑い者になる。
「殿。確かそれは、殿が元服されるときにお教えしましたよ」
俺は震えそうになる声を抑え、平静を装って言った。
「でも、あれから一度もお茶なんて点ててないから、忘れたよ」
そう言えばそうであった。
宴会や会食の席に呼ばれることはあっても、茶の席に呼ばれることは一度もなかった。
この殿においては、食い気の心が風流の心に勝っている。
茶道をまったく知らないようでは、あの千利休を可愛がっている秀吉公からお呼びが掛かったとき、大恥では済まない事態を招くかもしれない。
そう思った俺は、やりかけの仕事を放り出し、殿を茶室に抱えて行った。
まさか、こんな常識的なところから殿様の御ためが生じるとは夢にも思わなかった。
その後、俺は夕食の時刻まで殿に茶の作法を叩き込んだ。
だが、それでも不安が拭えなかったので、急遽実家に帰り、学堂の書斎を半ば荒らしながら茶の本を探した。
父は夕食中であったが、突然血相を変えて帰ってきた息子を、憑き物でも憑いたのではないかという目で、学堂の入口から箸を持ったまま眺めていた。
「お前、大丈夫か」
父がついにそう言うと、俺は、
「殿が大丈夫ではないのです」
と、ある種の失言を以て返事していた。
それから俺は、やっと探し出した本を持って城に戻り、殿様の御ため、昔のように、本を最初から最後まで読み聞かせた。
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