忍者ブログ
マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
11月
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
10月
12月
 
66 65 64 63 62 61 60 59 58 57 56
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

事の発端はこの一言であった。
「よりあに、お茶ってどうやって点てるんだっけ?」
筆を走らせていた俺は、思わず撥ねの部分を必要以上に撥ねてしまった
茶道は決して、風流な文化人だけのものではなく、大名以下武士全員がたしなみとするものである。
これを知らないとなると、常識知らずとして笑い者になる。
「殿。確かそれは、殿が元服されるときにお教えしましたよ」
俺は震えそうになる声を抑え、平静を装って言った。
「でも、あれから一度もお茶なんて点ててないから、忘れたよ」
そう言えばそうであった。
宴会や会食の席に呼ばれることはあっても、茶の席に呼ばれることは一度もなかった。
この殿においては、食い気の心が風流の心に勝っている
茶道をまったく知らないようでは、あの千利休を可愛がっている秀吉公からお呼びが掛かったとき、大恥では済まない事態を招くかもしれない。
そう思った俺は、やりかけの仕事を放り出し、殿を茶室に抱えて行った。
まさか、こんな常識的なところから殿様の御ためが生じるとは夢にも思わなかった。
その後、俺は夕食の時刻まで殿に茶の作法を叩き込んだ。
だが、それでも不安が拭えなかったので、急遽実家に帰り、学堂の書斎を半ば荒らしながら茶の本を探した。
父は夕食中であったが、突然血相を変えて帰ってきた息子を、憑き物でも憑いたのではないかという目で、学堂の入口から箸を持ったまま眺めていた。
「お前、大丈夫か」
父がついにそう言うと、俺は、
「殿が大丈夫ではないのです」
と、ある種の失言を以て返事していた。
それから俺は、やっと探し出した本を持って城に戻り、殿様の御ため、昔のように、本を最初から最後まで読み聞かせた。

PR
COMMENT
文字と絵 Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
お名前
メール
URL
PASS
TRACKBACK
TRACKBACK URL : 
 
PRODUCED BY SHINOBI.JP
こよみ
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
リンク

(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



歴史ブログ村
(PC用リンクバナー)
書き手の殿様の御ためっぷりがお気に召しましたら、クリックをお願いします
カテゴリー
キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
来訪者数
最新コメント
最新トラックバック
最新記事
プロフィール
HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
バーコード
ブログ内検索
最古記事
アクセス解析