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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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城の内部は昨日見学したので、今日は城から出て熊本の城下町を見て回った。
清正、殿、清正の家臣の飯田覚兵衛と俺の4人で城から出た。
馬に乗って移動していると、道脇の草むらからなにかが動く音が聞こえた。
その音に反応して振り向いた殿は、
「キジ馬だ」
と声を弾ませた。
「大人のオスでしたな」
飯田覚兵衛がそう言うと、殿は「どうして分かるのか」とでも言いたげな顔をした。
「こいつもキジ馬飼ってんだよ。なかなか詳しいぞ」
覚兵衛に代わり清正が付け加えた。
「話が合いそうだなぁ。今晩ゆっくりどう?」
殿の誘いに、覚兵衛は「喜んで」と答えていた。

川の傍にやって来ると、殿が清正に「あそこを見たいです」と言った。
川は堤防工事中だったのである。
工事の様子を間近に見られる場所に移動し、馬から下りると清正の説明があった。
「この辺りは、大雨が降るとすぐに川が氾濫を起こして田んぼを駄目にしやがるから、堤防工事を始めたんだ。これが完成すれば、稲の収穫が格段に良くなる」
さらに出来かけの堤防を指差し、
「それも、ただ土を高く盛るだけでは意味が無い。せり上がってきた水を押し返すように、撥ね出しを付けてやるとそう簡単には水が流れ出ないようになる」
と、独自の仕掛けを紹介した。
殿は清正の話を興味深そうに聞いていた。
現に、領国を流れる球磨川も、大雨が降ると度々洪水を起こし、町を水浸しにする。
殿はそれを清正に話した。
「なんとか解決したいんで、加藤さんのこの知恵を借りてもいいですか?」
知恵と言われて嬉しかったのか、清正は、
「ああ、構わないさ。それでお前のくにが良くなるならな」
と上機嫌だった。
俺は城に戻るとすぐに、殿様の御ため、清正から聞いた工法を書き留めておいた。
これを施工することで球磨川が暴れなくなれば、球磨の地はより豊かになるであろう。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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