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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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まだ夜が明けきらない時刻に、俺と殿は城を出発した。
今日から2日半は移動のみの予定である。
途中で馬を替えながら、とにかく走り通す。
往復に約6日、熊本滞在は7日間の予定である。

1日目の今夜は、運良く見つけた宿屋に泊まった。
俺が宿の主人に部屋の具合を訊ねたとき、一国の殿様がいると聞いて、もう老齢の主人は危うく腰を抜かすところであった。
そこに勤める女中や下男たちも、殿様の遇し方とやらに困惑していた。
が、腹黒い愛想がよく、話し方も娘のようにやわらかい殿に会って、緊張はほぐれたようであった。
殿はいつも通り食事の前に風呂に入り、
「いい湯だったよ」
と上機嫌だった。
夕食まで時間があったので、俺は地図を取り出して今日の行程について説明し、明日の予定距離についても話した。
「結構走ったように思ったんだけど、意外に進んでいないものだね」
殿は地図をまじまじと眺めてそう言った。
「そう言えば、馬に飼い葉をやってないね」
「それでしたら、殿が風呂に入っているときにここの者に頼みました」
俺が報告すると、
「そうか、よかっ」
よかった、と言い切る前に、殿の腹の虫が盛大に鳴いた。
馬にえさを与えたあとは、殿にもえさを与えなければならない。
殿様の御ため、俺は女中を呼び、夕食の支度をするよう言いつけた。

追記。
山中で、忍び装束を着た者が俺の元に寄って来た。
着物からして忍者であろうが、まったく忍ぶ様子もない。
「こんにちは、忍者です」
その者は懐から1通の書状を出し、それを俺に手渡した。
「必ずお読みくださいね」
そう言い残して、「忍者」は歩いて森の中に消えて行った。
殿は、
「あれが忍者なんだ」
と、初めて忍者に会えたことに興奮していた。
俺がこれまで仕留めてきた忍者は、あのように現れるどころか気配すら消すことができていたが
一応、俺は書状を開いて読んでみたが、その内容は殿にも俺にもなんのことやら分からなかった。
が、以後必要になるかもしれないので、ここに書き留めておく。

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忍者ブログ、サーバーメンテナンスのお知らせ
夜間帯の接続不良問題を解消するためのメンテナンス第二弾を下記の通り実施いたします。
作業時間帯は投稿・閲覧等すべての機能を停止させていただくことになりますので、何卒ご理解・ご了承くださいますようお願いいたします。
日時:2008年9月18日(木)
AM 1:00~AM 6:00 内容:サーバーの増設、データベースのバージョンアップ、メモリ増設 等
ブログサービスをご利用のみなさまには大変ご迷惑をおかけしますが、より快適な環境でご利用いただく土台を用意するための必要過程となりますので、何卒ご理解とご協力の程よろしくお願いいたします。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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