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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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今日はいよいよ、殿が待ちに待った熊本城見学の日であった。
もちろん俺も同行できた。
もしものときのために、この城の櫓の配置等を覚えておくことを念頭に置いて見学した
朝から浮かれっ放しの殿は当てにしない。
人吉城とは違い、熊本城の石垣は表面がまったく平らになっている。
これだけでも登りにくいのだが、石垣の途中から角度がほぼ垂直になり、さらに反り返っている。
殿の好きな武者返しである。
「綺麗だな~」
石垣を見上げ、殿は感嘆の声を上げていた。
「試しに登ってみてもいいですか?」
返されることを分かっているのに登りたがる殿を、清正は面白そうに笑って、
「おう、登れるもんなら登ってみろ」
と促した。
案の定、途中までは順調に登られたが、中頃になると身動きできなくなった。
「どうだ、無理だろう」
清正は下から殿に向かって叫んだ。
「ほんとうに無理ですね」
無理と言っているのに、殿は嬉しそうだった。
さて、登ったは良いがどうやって下りるのだろう、と俺は考えた。
不可能であることを承知で登ったのであるから、なんらかの妙案があってこそだ。
あれほど威勢良く煽った清正も、そのときになってようやく顔色が変わった。
武者返しと言うだけに、敵を返して落とし、損害を与えるためのものである。
一旦手を掛けた以上、登りきるか落ちるかの2択でしかないのだ。
「お前、どうするんだ」
「え?」
次の瞬間に、殿は跳ねるように石垣から飛び降りた。
まるで放物線のように滑らかな曲線を描き、地面に降り立つ鳥のように軽やかに着地した。
「実際に効果を体験できて良かったです」
殿は、何事もなかったかのようにそう感想を述べた。
清正も俺も、きっと目が点になっていたことだろう。
殿様の御ため、俺は、
「満点ですね」
と言った。
「だよね、これだけ威力があるなら満点だよね」
殿は再び石垣を見上げてそう言った。
石垣じゃなくて、お前がな
清正は殿にきっちり突っ込みを入れていた。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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