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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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午後のまだ陽が高い頃に、熊本に入った。
山を越え、熊本城の天守閣が見えると、殿は、
「加藤さん家が見えたよ」
と騒いでいた。
間違えてはいないが、『加藤さん家』という表現はどうだろうか
途中で、熊本城からの迎えの者、飯田覚兵衛と合流した。
幼い頃から加藤清正に仕えている男で、気さくな人柄であった。
殿と話が合うのか、合わせているのか、よく話していた。
熊本城のすぐ下に到着すると、なんと、三の丸の門前まで加藤清正が迎えに出ていた。
殿と俺は慌てて馬から降り、挨拶した。
「おう、よく来た、よく来た!」
と、清正は殿の背を力一杯幾度も叩いて笑っていた。
大歓迎であった。
それから城まで、三の丸、二の丸、本丸と上っていったのだが、その間の殿のはしゃぎようは尋常ではなかった。
殿は、熊本城の武者返しが大の気に入りなのである。
「いいなあ」「格好いいなあ」を連発し、それゆえに余計清正の機嫌も一層良くなる。
「1週間こっちにいるなら、ゆっくり全部見せてやるよ」
自慢して見せたいのだろう、と俺は思った。
相良家がいつ加藤家から手を切るかもわからないのに、城の内部をすべて見せようと言うのはほぼ自殺行為であろう。
城の居間に通されると、茶と茶菓子でもてなされた。
茶菓子には、熊本銘菓「いきなり団子」という饅頭が出された。
もっとも、これは清正から訊いて知った名称である。
小麦粉で作った皮の中に、さつまいもが入っていた。
さつまいもの甘さが引き立っていたので、殿はこれも気に入り、美味そうに食っていた。
それを見ることで、また清正の機嫌が良くなる。
すこし話をしたあと、清正は、
「疲れただろう。風呂に入って、晩飯まで昼寝でもしろ」
と言った。
殿と俺は言葉に甘え、風呂に入って旅の埃を落とした。
さすがに疲れが溜まっていたのか、殿は眠たげな顔で布団に入った。
「晩ごはん楽しみだね」
嬉しそうにそう言うと、殿はすぐに眠った。
殿様の御ため、俺は殿の横に日よけのついたてを立てた。
確実に今夜は大宴会が開かれるであろう。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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