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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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午前中に、殿と槍の訓練をした。
最近は刀ばかりであったので、槍を扱うのは久々だった。
もっとも、実際の戦場で用いる武器で主流なものは槍である。
殿と手合わせしていると、俺はふと違和感を感じた。
なにかが違う。
殿に槍の手さばきを教えてきたのは自分であるが、殿の手付きから、教えたものとは異なる感覚が伝わってきた。
俺は一旦中止し、殿にその違和感を述べた。
すると殿は、
「昔、義弘さんにも教えてもらったからかなぁ」
と言った。
島津義弘と言えば、中央にまで名の聞こえるほどの槍の名手である。
殿によると、義弘は、政治に関することはすべて兄で当主の義久に任せ、夏場は茄子を作るなどして気ままに暮らし、戦が起こればそれに出る日々だという。
薩摩の足軽のようだ
何年前になるか、まだ相良家が島津の幕下に入る前、伊東氏と謀り島津義弘を討とうとしたことがある。
木崎原の戦いと呼ばれ、義陽公指揮の下、俺も父と共に従軍した。
時機到来とあらば、出て行って義弘を挟み撃ちにする作戦であったが、伊東勢の10分の1の数の島津軍に味方が崩されていくのを目の当たりにして、相良勢は結局引き返した。
そのとき、遠目ではあったが、俺は義弘の姿を見た。
馬上で自ら槍を振るい、釣り野伏せという薩摩特有の戦法で敵を陥れる様は、敵ながら見とれるほどであった。
殿は、その義弘から直接槍を教わったと言う。
「よりあにに教えてもらった通りの使い方に戻すよ」
と、もう一度いちから教えてくれと意気込む殿に、俺は、
「いいえ、そのままで結構です」
と言った。
「いまのほうが、動きに切れがあってよろしいでしょう」
殿は、俺のいい加減な理屈に訝しげな顔をした。
殿様の御ため、俺は小さな声で、
義弘の槍で島津を制するのも、また一興でしょう
と本音を呟いた。
これを聞いた殿は、「よりあにはやらしいね」と笑っていた。
が、
そういうところが好きだけどね
殿は真顔に戻るとそう言った。
俺は思う。
殿のほうが、俺の何十倍も嫌らしい、と。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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