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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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朝食後、殿が突然、
「兄さんたちの墓参りに行きたい」
と言い始めた。
たしか、墓参りなら盆に行ったはずである。
それを言うと、「もう1度行きたいんだ」と返してきた。
墓参りくらい時間の掛かることでもなければ、相良家の菩提寺である願成寺は城からそう遠くない。
俺は了解し、供をした。

住持から挨拶を受けたあと、相良家墓地に行った。
そこには、初代から19代までの墓が並んでいる。
蝉がそこかしこで鳴き、夏の名残りを漂わせていた。
「いつかは僕もここに来るんだね」
意味深なことを言う、と、俺は殿を見た。
その訝しげな視線に気づいた殿は、
「深い意味は無いよ」
と笑っていた。
どこか物悲しい微笑だった。
殿の父親と兄の墓は、探さずとも見つかった。
ほかの五輪塔には苔が生え、長い年月を背負っているような厳かな重みがあるが、18代、19代の墓はまだ新しい。
殿は2つの墓の前にかがんだ。
なにも言わない。
墓の向こうに2人の影でも見えるのか、ただ、じっと2つの五輪塔を見つめていた。
「よりあに」
不意に、殿は横に立っている俺を呼んだ。
「僕にはひとつ、言わなきゃ気の済まないことがある。でも、それは絶対に人前で言ってはならないことなんだ」
俺は、墓のうしろに生えている樹を見上げた。
「今日はまた一段と蝉がうるさいですね」
父さんは島津の駒にされて死んだ
視線を下ろして殿を見ると、殿は俺を見上げていた。
感極まり、感情を目で押し出すような瞳ではなかった。
ひどく冷静なものだった。
殿様の御ため、俺はこう言った。
「蝉は小さなものですが、鳴くととても存在感があります。地上にいられるのは僅かな時間であるにも関わらず、最後に鳴いて、存在を示して一生に華を咲かせるために数年も土の中にいます。そのありさまは、武士の心にも通じるのではないでしょうか」
殿の父親、18代義陽公は、自分が捨て駒にされていることは知っていた。
生きようが死のうが、島津には痛くも痒くもないことを知っていた。
それならば、潔く死んでみせようと思ったのであろう。
あの討死は、義陽公のせめてもの反抗、最後の華であったと思われる。
殿はすこしの間黙っていたが、
「…そうだね、立派なものだ」
と一度頷いてそう言った。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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