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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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熊本滞在最終日の今夜は、初日と同じく宴会が開かれた。
ただし、明日は早朝に出発するので、酒は少なめの小規模な宴会だった。
「結局、留守居からはなんの連絡も無かったんだな」
盃を傾けながら清正が言った。
留守居の深水頼蔵には、なにか不穏なことがあれば、即刻熊本へ使者を出すように言いつけてある。
「はい。なにもありませんでした」
殿がそう答えると、清正は「そうか」と頷いていた。
「お前らだけで手に負えないようなことがあったら、俺を頼れよ。すぐに行ってやるから」
ありがとうございます、と殿は頭を下げた。
「その代わりと言ってはなんだが」
清正は盃を置いた。
その言葉に、殿も俺も身構えた。
「小西の奴の弱みとか恥ずかしいところを知ったら、俺に教えろよ」
清正は小西が心底憎たらしい、という顔をつくった。
殿は拍子抜けしたようだが、すぐ笑顔になり、
「分かりました。でも、加藤さんの恥ずかしいところを小西さんに流してしまったので、あまり意味が無いかもしれませんが」
と、要らぬことを報告した。
殿が笑顔になったときに、目で殺さなかったのは失態だった。
慌てて清正は座を立って殿の元へ行き、「なにを言った?」と殿を揺さぶりながら詰問し始めた。
外見によらず、清正は神経質である。
こんな些細なことで、有事の際に期待できる大きな援軍をふいにするのは馬鹿馬鹿しい。
殿は答えるのを渋っていたが、殿様の御ため
「殿。言わなければ、私が清正殿に殿の恥ずかしい話を致しますよ」
と言うと、殿はおとなしく白状を始めた。

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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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