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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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昨夜の風は大したことはなかったが、雨はよく降った。
それでも幸い球磨川は若干の増水が見られただけで、領民の避難が必要になるほどではなかった。
よく持ちこたえたと思う。
しかし、山のあちこちで崖崩れが起きたらしい。
怪我人こそ出なかったが、道が塞がり、復旧にはしばらくの時間が掛かりそうである。
そのような被害状況をまとめた書類が、陽が昇るや否や殿の元に集まり始めた。
正午が近くなる頃には、状況報告書から復旧見積もり報告書へと変わり、それらを深水頼蔵がそろばんを弾いて処理していた。
「殿、現時点での費用はこのようになりました」
殿は紙を受け取ると、「いち、に、さん…」と零の数を数え、沈黙してしまった
「ひと月この城を動かすのに必要な資金のふた月ぶんです」
なぜこいつは、いつもいつも『この金額は何々と同額』、というような比較を持ち出すのだろうか
「これから毎月節約して浮いたお金を充てても、何年掛かるかわからないよね」
節約と言っても、この時勢、最も金の掛かる軍費は対象外である。
大きな効果は期待できない。
そのとき、俺は棚に収められている商家の目録を見て、ふと思いついた。
「解禁しますか」
この一言を聞き、殿は紙から顔を上げた。
「いまは制限を設けている、他国との商売の権利をすべての商家に与えて経済を活発にし、その売り上げの定率を徴収してみては如何でしょうか」
もちろん、従来から特権を持っていた商家にはさらなる優遇を施し、不平を言わせぬようにする。
「それと城内の経費削減を同時進行し、半年程度を期限として今回の費用を賄えば良いかと思われます」
しばらく殿は思案していたが、
「そうだね、それでやってみようか」
と頷いた。
経済方面は頼蔵のほうが得意としているので、奴を差し置いて殿様の御ために励めたことは、今後の良い自信になった。
だが、
「頼兄殿、さすが年の功だけありますね」
俺とお前はたったの1年違いだが
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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