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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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いつの間にか蝉は死に絶えていた。
早朝から1匹2匹ずつ鳴き始め、次第に庭が蝉の鳴き声で充満していくような活発な生命力は、すでに過去のものになったようである。
これから短い秋を経て、すぐに冬がやってくるであろう。
俺の最も苦手な季節だ。
肥後は南国と言えど、冬にはやはり雪が積もる。
そのうえ球磨川から川霧が立ち、昼が過ぎても消えずに漂っていることがよくある。
この霧のために、余計に寒さが増す。
ここ球磨の地の気候条件は、とことん俺に合わない。
それでも、冬になるとつい思い出す出来事がある。
昔、お家伝来の壺に悪戯をした殿が、父の義陽公に叱られ、城外に閉め出されたことがある。
よく雪の積もっている日だった。
俺は許しを請うために義陽公の部屋に入ろうとしたが、中から義陽公と殿の母の声が聞こえてきた。
その雰囲気のために中に入ることが憚られ、俺は部屋の前を素通りした。
のちに、俺は殿の母に呼び出され、殿を迎えに行ってやって欲しいと言われた。
話を聞いたところ、義陽公からなんとかお許しをいただけたということだった。
きっと、我が子のために頭を下げて謝り続け、冷たい雪の中から救ってやりたいという一心だったのだろう。
俺が迎えに出向くと、殿は泣き腫らした目で俺を見上げた。
父親が許してくれた旨を告げて城に連れて帰り、雪に濡れた着物を着替えさせて温かいものを飲ませた。
父の厳しさも、母の優しさも、たいせつなものである。
殿様の御ためも、この両者を基本として生じるものなのかもしれない。
休日の午後、炬燵を準備しながらそんなことを考えた。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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