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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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城の一角に、栗の木を植えている場所がある。
毎年よい実が生るため、台所の連中がよく採集している。
俗に言う「栗拾い」であるが、それを台所の者から聞いた殿が目を輝かせた。
「懐かしいなあ。よりあに、またやりたい」
その輝いた目のまま、殿は俺のほうを振り返ってそう言った。
俺は思わずその目から顔を背けながら、「いいですよ」と答えた。
まるで、真夏の太陽の光を反射する川面のような眩しさであった。
密生している栗の木の周囲には、大きないがが互いに狭そうに地面に転がっていた。
殿は、それらを採っては背中の籠に投げ入れた。
ふと、そのとき。
的の外れたいがが、殿のうしろに居た俺のほうへ飛んできた。
手で受け取る訳にもいかず、また、刀を抜いて一刀両断する訳にもいかない。
避けるしか方法はなかったが、いがは丁度襟巻きに引っ掛かった。
「あ」
殿は驚いた顔で振り向いた。
「ごめん…」
殿はそう呟いたが、殿様の御ため、俺は、
「いがのひとつやふたつ、気にするまでもありません」
と言った。
戦場では、いがなどより殺傷能力の優れた弾や矢が飛び交っている。
よって、いがが飛んでくることに対してはそう神経質になる必要はない。
しかし、襟巻きにいがを乗せた格好を見られたことは恥だと思った。
それを殿に言うと、殿は、
「なんだか秋らしく見えるよ」
と、どこか羨ましげな目で俺を見た。
紅葉ならば、さまになりますけども
その後、殿たちが栗を拾っている間、俺は襟巻きのいがを取る作業に没頭していた。
拾い終わったあと、台所の者が恐る恐る「この栗はかち栗に致しましょうか」と提案した。
殿が快く賛成したため、その者はやりがいを得たように意気揚々とした表情になった。
かち栗とは、「かち」と「勝ち」を掛けた武家の縁起物である。
台所の者もまた、俺とは違った角度から殿様の御ために考えを尽くしているようだ。
末端の者までこの様子であるのだから、相良のお家は、軸のしっかりとした奉公態勢だと思われる。
とても良いものを見られた栗拾いであった。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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