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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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姿を見掛けると跡をつけ、柱の影から様子を窺った。
部屋に入ってしまうと、踏み込んでいくか出てくるまで待つかひたすら悩んだ。
一言で言えば、今日俺は深水頼蔵をつけまわしていた
もちろん、例の123人目の訪問者からの要求を果たすためである。
だが、奴には1人でいる時間があまりない。
廊下を歩く際は、ほぼ確実に誰かと談笑しながら歩いている。
俺はとにかく頼蔵が1人の場面を狙っていたので、意を決し、次に奴が部屋に戻ってきたときに斬り込むことにした。
「頼兄殿、なにか御用ですか」
部屋の前で硬直しながら待っていると、いつもの腹の立つ微笑を浮かべた頼蔵が戻ってきた。
「この書類で訊きたいことがある」
俺は予め用意しておいた書類を差し出した。
当然ながら、実際はその書類に不明な点などはない。
「そうですか。では中で伺いましょう」
頼蔵は快く俺を部屋に通した。
勧められた座布団に座り、少し部屋の中を見回した。
女から贈られたものと思われる置き物が棚の上に並んでいた。
頼蔵は書類にさっと目を通すと、すぐに俺の疑問を解消した。
さらに、
「この書類のほかに、似た内容のものがありませんでしたか?それを見ればより詳細がわかりますよ。でも」
頼蔵は怪訝そうな顔になった。
「この案は、たとえ通ったとしても寿命は短いでしょうね。内容が対症的ですから、根本からの解決には程遠いでしょう」
そうか、と俺は呟いた。
俺がお前のように物事を達観でき、その上細部まで分析する能力に長けていれば、わざわざお前のところに訊ねに行く必要もなかっただろうな
しばらく沈黙が流れたが、頼蔵の失笑がそれを破った。
「それは褒め言葉として受け取っておきましょう」
明らかに不自然、かつ自分らしい嫌味のある言葉遣いに居たたまれなくなり、俺は頼蔵への礼もそこそこに自室に逃げ帰った。
あと2回である。
やりきれないが、俺が武士らしく約束を果たすことも殿様の御ためと考え、実行しようと思う。

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ありがとうございます!
2008/10/13(Mon)20:44:14
まずは一つ目達成おめでとうございます!!
なんだか無理難題をふっかけてしまい、逆に申し訳ないです…。
この勢いであと二つ分頑張って下さい!!!
編集
Re:ありがとうございます!
2008/10/13 22:25
思った以上に負荷が大きかったが、その分やりがいもある。
残り2つも達成するので日記で確認していただければ幸いだ。
犬童頼兄
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
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相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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相良家筆頭家老
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