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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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深水頼蔵の良いところを本人に3つ告げる話を受け、今日は2つ目を実行した。
頼蔵は城中の交友関係が広い。
見掛ける度に誰かと話しており、休日はよく家臣同士で誘い合って飲みに行っているらしい。
これについて考えを詰めていくと、またひとつ奴の長所を見出すことができた。
お前は人付き合いが上手いな
廊下で奴が岡本頼氏殿と別れたところを見計らい、俺がそう言うと、頼蔵は、
「ただそういう性分であるだけですよ」
人と話すのが好きなので、人を求める結果、傍目にはそう見えるだけだ、と頼蔵は微笑んだ。
「味方は多いほうがいい。俺などより、お前の性格のほうが世を上手く渡れるだろう」
つい俺は思ったことをそのまま口にしてしまい、また嫌味のようなことを言ってしまった。
が、頼蔵はいつものように嫌味を返すこともせず、呟いた。
「上面だけで群れていて、味方ですか。互いに本音を晒すこともできずに、味方とは言えません」
意外なほどに深刻な顔をした頼蔵に、俺は内心驚いた。
「私は、できることなら」
頼蔵は続けた。
「信念やら本音やらを堂々と語ってくれるあなたとこそ、味方になりたいものです。芯の強い人間ほど凶器ですが、自分の近くにいれば、これほど頼もしい相手はいませんよ」
これが頼蔵の本音なのか、違うのか。
俺をたぶらかす策なのか、違うのか。
これまで様々な人間と政治的・心情的な駆け引きを繰り返してきたが、頼蔵の頭の中はわからなかった。
それがわかったとき、俺と深水頼蔵の人間関係において、殿様の御ためにすべきほんとうのこともわかるのであろう。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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