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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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先月末から仕事が立て込み始め、日記を書く時間も仕事をせねばならなくなった。
よって、今月は日記を控えようと思う。
可能な限り、時間を見つけて近況やその日の出来事を記す。

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午後、俺宛てに荷物が届いたと言って、頼蔵が袋を持って部屋に来た。
「お姉さんからですよ」
何故か頼蔵が嬉しそうに笑いながら、俺に袋を手渡した。
俺が袋を開けるまでその場を離れそうになかったので、俺は受け取るとすぐに袋の中身を取り出した。
厚手の上着だった。
添えられていた手紙には、「厚着をして、風邪を引かないように」とあった。
「良かったですね」
励ますように俺の肩を叩いて、頼蔵は部屋から出て行った。
寒がりの弟に着物を送ってやろうという気持ちだけで、俺は十分温かい。
これを着て、殿様の御ために働いて行こうと思う。
まるで昨日の雨模様が嘘であるかのように、今日は朝から快晴だった。
先日洗濯に出し損ねた襟巻きを洗濯担当の者に渡すと、夕方には仕上がりよく乾いて手元に返ってきた。
「よりあに、前も襟巻き洗ってなかったっけ?」
返ってきた襟巻きの山を見て、殿が俺に尋ねた。
「1日中身につけるものですから、まめに洗って清潔にしておきたいのですよ」
俺がそう答えると、殿は「綺麗好きだね」と微笑んだ。
そのとき、部屋の隅に置かれた殿の手拭がふと目に入った。
考えてみると、ここ1,2ヶ月ほど部屋のあちこちで見掛けている。
もしやと思いつつ、殿に「あれはどれくらい使っているのか」と訊くと、
「1ヶ月?2ヶ月くらいかな」
と平然とした答えが返ってきた。
いくらなんでも、手拭を2ヶ月も使い続けるなど衛生上あってはならないことである。
殿様の御ため、俺はその手拭をすぐさま洗濯場に持って行き、明日一番に洗うよう言いつけた。
殿曰く、
「キジ馬の刺繍がしてあるから、お気に入りなんだよ」
子供ではないのだから、せめて適度に清潔に保ちながら愛用して欲しいものである。
昼食時、殿は本を読みながら食事に塩を振りかけていた。
相当本に熱中していたのだろう、5,6回かけても手を止めずに塩鉢から塩を摘み出し続けていた。
「殿、いつまでかけるつもりですか」
俺が声を掛けると、ようやく殿は食事に積もった塩に気が付いた。
「あー…」
言葉を失ったあと、
「富士山に積もる雪をちょっと先取りしてみたよ」
と、妙な理屈をこねた。
「富士山を見たこともない人が言う台詞ですか」
俺は殿のまったく上手くない言い訳を一蹴し、
「だから食事中に本を読むなと昔から言っているでしょう」
と注意して本を取り上げた。
それから殿様の御ため、台所に積雪ならぬ積塩した食事を取り替えに行った。

襟巻きをまとめて洗濯に出そうと思っていたのだが、生憎の雨のために明日に延期した。
今年は目立った嵐は来なかったが、例年に比べてよく雨の降る秋になった。
さて。
城の裏の山を少し入ったところに、椎茸を植えたほたぎが並べられている。
かつて大友宗麟についていた頃、記念として贈られたものだ。
豊後は椎茸が名産のくにであるから、これでもかと言うほどほたぎを送り付けられ、その置き場所に皆で困ったものだ、と父が話していたのを覚えている。
結局大友家とは手を切り、相良家は島津側についたのであるが、ほたぎはそのまま残された。
先代である殿の兄が、「いざというときの非常食になるであろう」と言って保存を命じたのである。
午後、雨が止んだ頃を見計らって、俺は裏山に入った。
目的はほたぎである。
そう急ではない斜面を登っていくと、肌寒いしっとりとした空気の中に、湿って木の色が濃くなったほたぎが並んでいた。
時折誰かが手入れにやって来るのであろう。
ほたぎに絡もうとするつるなどを刈り取った形跡があった。
深く考え過ぎなのだろうか、俺にはただの椎茸には思えなかった。
北の勢力が盛れば北につき、南の勢力がそうなれば南につく。
ほたぎは、相良家の動態の片鱗を表しているように思われてならなかったのである。
観察すると、この秋も順調に生え始めていた。
それとは裏腹に、贈り主のくにが堕ちつつあろうと、相良家にはなんら関係の無いことだ。
政治とは非情なもの。
せっかく贈った記念品も、自身の没落を他人に自ら物語るような無様な残骸にしかならない。
俺は城に戻り、味噌汁好きな殿様の御ため、ほたぎのことを話した。
「じゃあ、収穫が楽しみだね。またいい出汁を出してくれたらいいなぁ」
大友家の出汁で相良を養う。
うまく表せないが、俺には非情に面白おかしく聞こえた。

 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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