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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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1週間の盆休みも終わり、今日から再び仕事が始まった。
とりあえず今日は、盆休みのことを書きたいと思う。

休みの中頃に、嫁に行った姉上が帰ってきた。
12歳の娘、10歳の長男、飛んで4歳の末娘も連れてきていた。
玄関に出て4人を迎えた父は、滅多に会えない孫たちを猫かわいがりしていた。
俺は日当たりのいい縁側にいたのだが、どうしてそこにいると分かったのか、姉上がやってきて
頼兄ちゃん、久し振りね」
と言った。
姉上はむかしから、俺を「ちゃん」付けで呼ぶ。
十代半ばの頃はそれが恥ずかしかったが、この年になると不似合いも甚だしく、それゆえにかあまり気にならなくなった。
俺を見て、相変わらず日向ぼっこが好きなのね、と笑うと、
「そんな暑いところじゃなくて、こっちにいらっしゃい」
と、姉上は俺を居間へ誘った。
姉上が帰ってきたらすぐ昼食にする予定だったので、すでに居間はその準備が整っていた。
父は、末の孫娘を膝に抱いて席に座っていた。
食事中、姉上の嫁ぎ先の跡取りである10歳の長男が、俺に刀を教えて欲しいと言った。
もちろん承諾したが、この年頃の子供は、それなりに力が付いてくる上に無茶をする
殿の兄や殿にも教えてきたが、よく型破りの剣術に困らされたものだ。
その日も結局、自由気ままな剣術に翻弄された。

しかし、なかなか嬉しいこともあった。
夜、上の娘が俺の部屋にやってきて、風呂敷包みを渡した。
訊けば、中身は襟巻きだと言う。
母に教わりながら、毎日少しずつ編み続けたようであった。
所々がいびつであるが、それもむしろ微笑ましく思った。
まさか姪からこのようなものを貰えるとは思ってもいなかったので、らしくもなく感動した。

今日はその襟巻きをつけて殿に朝の挨拶に伺ったところ、
「それ、新しい襟巻きだね」
と、殿はめざとく気付いた。
詳しく話すと、殿は「いいなぁ、羨ましいよ」といつもの笑顔で言った。
俺は先に姪ができたが、殿は姪より嫁が先でなければ、と思った。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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