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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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荷造りが済むと、俺は殿の部屋に挨拶に行った。
殿は俺がなにを言いに来たのかすぐに分かったようで、俺を見るなり
「ああ、そうか。今日帰るんだね」
と言った。
俺は殿の前に座り、今年もお世話になりました、と一礼した。
「僕こそ、よりあにには色々世話を掛けたよ。ありがとう」
殿に「ありがとう」と言われ、俺も慌てて「ありがとうございました」ともう一度礼をした。
「正月くらいはよく休んで、また来年も側で働いてよ」
「もちろん、来年のみと言わず一生殿様の御ために仕えさせていただきます」
俺がこう言うと、殿は満足そうに「うん」と頷いた。
良いことも悪いことも含め、今年も様々な出来事があった。
それらに対して、俺は殿様の御ためになる最善の処置をとることができたのだろうか。
そしてその対処は、短絡的で見てくれだけの、内容のないものではなかっただろうか。
城を下りて城下町の喧騒の中を進む足を止め、俺は振り返って城を見上げた。
すでに葉が散り、枝と幹だけになったイチョウの木が、二の丸の城壁の上から覗いて見えた。
夏、俺が木の上で昼寝をしていると、下から殿が「桃を食べよう」と誘ってくれた木だ。
冬、殿が茶碗蒸しを思い出した木だ。
木ひとつと言えどもそれには多くの思い出が伴っており、またそれは今年を見直す情報でもある。
残り1日半となってしまった今年のうちに、思い出を元に今年の殿様の御ためを十分検討・反省しよう。
そう思って向き直り、再び歩き始めた。
父はみかんが好きであることを思い出し、途中の店で1盛り買って帰った。

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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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HN:
犬童頼兄
性別:
非公開
職業:
相良家筆頭家老
趣味:
策略謀略
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