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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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無事年が明けた。
朝、支度を整えて部屋を出ると、庭に雪が積もっていた。
歩けば草履が埋もれてしまう深さである。
寒い元日になってしまった、と襟巻きを巻き直し、居間に行くと、雑用人たちが餅をつく準備を始めていた。
めいめいから新年の挨拶を受け、父が居間に来たところで、年賀状の披露が始まった。
父宛てには、同じく隠居した同期やよく面倒を見ていた後輩から山のように届いていた。
俺には、岡本頼氏殿から来ていたのは嬉しかったが、律儀にも深水頼蔵からも来ていたのは新年早々社交辞令を見た気分だった。
と言っても、俺も立場上頼蔵にも送ったので、人のことは言えない。
こうやってゆるりと過ごすのもよかったが、今日は登城し、殿に新年の挨拶をしなければならない日である。
陽が高く昇り、雪も溶け始めた昼頃に家を出た。
溶けかけた雪は滑りやすい。
除雪されているとは言え、まだ濡れている石段を慎重に上った。
「よりあにー、明けましておめでとう」
本丸にたどり着き、城に入ろうとすると、頭上から殿の声が聞こえた。
見上げると、相当上の階から殿が手を振っているのが見えた。
「よく見えるものだ」と思いながら「おめでとうございます」と一礼し、暖かい城内に入った。
そのあと、毎年恒例の新年の挨拶の儀式が行われ、真昼の酒宴になだれ込んだ。
殿に酌をしながら、俺は「よく、あの高い場所から私だと分かりましたね」と言った。
すると殿は、
「首から青い布をひらひらさせているのは、よりあにしかいないからね」
と、笑って答えた。
幼少の時分から寒がりのために常にこの青い襟巻きを巻き、時には変わり者と言われたが、殿の目によく留まるのならば、喜ばしいことである。
殿様の御ため、俺は側にいた給仕に熱燗をもう1本頼んだ。
「まだ飲んでいいの?」
殿は、普段ならうるさく酒の量を制限する俺を期待に溢れた目で見た。
「正月ですから」
俺はそう答え、数の子を殿のキジ馬に与えた。
キジ馬は美味そうに食べていた。
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
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よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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非公開
職業:
相良家筆頭家老
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策略謀略
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