幼い頃の殿は、なにもない部屋の隅を見つめていたり、誰もいないにも関わらず嬉しそうに笑うことがしばしばあった。
殿の兄と弟にはそのようなことはなかった。
そこで、あまりに頻繁にそれが起こっていたとき、俺は殿になにが見えているのか訊ねたことがある。
「僕のお祖父さんのお祖父さんの、もっと前の人だよ」
本人がそう教えてくれたと言う。
俺は「そうですか」と頷きながらもあまり信じていなかったが、10年以上経った今でも殿はふとなにもない場所に気を取られたりするので、あれはほんとうであったと今更ながら驚くばかりである。
今日も、廊下を歩いているとき、殿が庭の一角を突然気にし始めた。
俺はまたなにかがいるのかと思ったが、殿の視線の先にあったのは野生のキジ馬であった。
俺は殿様の御ため、
「浮気は不義にあたりますよ」
と言っておいた。
いつからそこにいたのか、柱の陰から、殿のキジ馬がじっとこちらを見ていたその目が印象的であった。
殿の兄と弟にはそのようなことはなかった。
そこで、あまりに頻繁にそれが起こっていたとき、俺は殿になにが見えているのか訊ねたことがある。
「僕のお祖父さんのお祖父さんの、もっと前の人だよ」
本人がそう教えてくれたと言う。
俺は「そうですか」と頷きながらもあまり信じていなかったが、10年以上経った今でも殿はふとなにもない場所に気を取られたりするので、あれはほんとうであったと今更ながら驚くばかりである。
今日も、廊下を歩いているとき、殿が庭の一角を突然気にし始めた。
俺はまたなにかがいるのかと思ったが、殿の視線の先にあったのは野生のキジ馬であった。
俺は殿様の御ため、
「浮気は不義にあたりますよ」
と言っておいた。
いつからそこにいたのか、柱の陰から、殿のキジ馬がじっとこちらを見ていたその目が印象的であった。
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殿に呼び出されたので、俺は物陰を選んで風をことごとく避けながら廊下を通り、殿の部屋に入った。
「書けたよ」
殿が笑顔で見せたのは年賀状であった。
今日は15日なので、例年より10日も早い仕上がりだった。
「これで、飛脚を急かさなくてもいいよね」
殿は十数枚の年賀状を満足そうに眺めた。
「そうですね。今日飛脚の元へ持ってゆけば、間違いなく元旦に届けてもらえるでしょう」
そこで俺ははたと気付いた。
確かに、今から飛脚に渡せば安心である。
しかし、殿自らが書いた年賀状を、ひとに預けて持って行かせるのは若干不安だ。
自分で持って行き、きちんと飛脚が受け取るのを見ねば落ち着かない。
かといって、この寒い中、町に下りるのは気が進まない。
すこし躊躇ったあと、殿様の御ため、
「殿、私がこれから飛脚に預けて参ります」
と言った。
殿は俺の寒がりを知っているので、「大丈夫なの?」と訊いたが、俺はもう一度「行って参ります」と繰り返した。
実際、帰り道では、寒さのあまり城に戻るのを諦めそうになった。
「書けたよ」
殿が笑顔で見せたのは年賀状であった。
今日は15日なので、例年より10日も早い仕上がりだった。
「これで、飛脚を急かさなくてもいいよね」
殿は十数枚の年賀状を満足そうに眺めた。
「そうですね。今日飛脚の元へ持ってゆけば、間違いなく元旦に届けてもらえるでしょう」
そこで俺ははたと気付いた。
確かに、今から飛脚に渡せば安心である。
しかし、殿自らが書いた年賀状を、ひとに預けて持って行かせるのは若干不安だ。
自分で持って行き、きちんと飛脚が受け取るのを見ねば落ち着かない。
かといって、この寒い中、町に下りるのは気が進まない。
すこし躊躇ったあと、殿様の御ため、
「殿、私がこれから飛脚に預けて参ります」
と言った。
殿は俺の寒がりを知っているので、「大丈夫なの?」と訊いたが、俺はもう一度「行って参ります」と繰り返した。
実際、帰り道では、寒さのあまり城に戻るのを諦めそうになった。
午前中に、姉の嫁ぎ先の家に行ってきた。
来週の日曜日にすこし邪魔したいと思っていたので、都合を訊きに行ったのである。
その旨を家長である義兄に伝えると、
「来週の日曜日なら、いつでも構いませんよ」
と快い返事を貰った。
俺は「では午後2時頃にお伺いさせていただきます」と言い、その場を失礼しようとした。
が、
「茶でも飲んでいきませんか」
と半ば引き止めるような表情で誘われたので、俺は「それでは、是非」と答えた。
実際今日は休日で、急いで城に戻っても別段用事も無かったので、付き合いでなくとも誘いには応じていただろう。
義兄は妻である姉上を呼び、茶の支度をするよう言いつけていた。
「最近、殿は如何お過ごしですか」
茶が届くと、義兄は殿の近況を訊ねた。
「変わらずお元気で、政務に励まれていますよ」
俺は少々美化脚色して答えた。
現実は「変わらず能天気で、他人が強いれば政務に手を付ける」が精々である。
あえて脚色するのは、この人がまさに殿を敬慕し、殿に心酔しているからだ。
まさか俺が時々殿に蹴りを入れているなどと言えば、衝撃で3日は抜け殻のようになってしまうだろう。
「そうですか。さすが我々がお仕えさせて頂いている殿様だ」
義兄は、感動の故か熱のこもった頷きを繰り返した。
義兄が俺に殿の話を求めるのは、彼が殿に会えない身分だからである。
そして、殿の側近である俺には、義弟であるにも関わらず丁寧な言葉遣いをする。
「私も早く、殿にお会いできるよう出世しなければ」
義兄はその後30分ほど意気込みを語り、徐々に過激化していく彼の殿様像の美しさに少々冷や汗をかいた。
帰り際、庭で兵法の鍛錬をしている甥に会った。
その甥曰く、
「俺もいつか叔父さんみたいになるんだ」
帰路、俺は理想と現実の間を埋めるものはなんだろうか、と悶々と考えた。
殿様の御ためと言いながら、俺は割と殿に対していい加減なこともしているし、殿もゆるいのだ。
それが現実なのだ。
殿や俺をそんな美しい目で見られても、現実は1欠片の美と99の混沌で出来ているものなのだ。
来週の日曜日にすこし邪魔したいと思っていたので、都合を訊きに行ったのである。
その旨を家長である義兄に伝えると、
「来週の日曜日なら、いつでも構いませんよ」
と快い返事を貰った。
俺は「では午後2時頃にお伺いさせていただきます」と言い、その場を失礼しようとした。
が、
「茶でも飲んでいきませんか」
と半ば引き止めるような表情で誘われたので、俺は「それでは、是非」と答えた。
実際今日は休日で、急いで城に戻っても別段用事も無かったので、付き合いでなくとも誘いには応じていただろう。
義兄は妻である姉上を呼び、茶の支度をするよう言いつけていた。
「最近、殿は如何お過ごしですか」
茶が届くと、義兄は殿の近況を訊ねた。
「変わらずお元気で、政務に励まれていますよ」
俺は少々美化脚色して答えた。
現実は「変わらず能天気で、他人が強いれば政務に手を付ける」が精々である。
あえて脚色するのは、この人がまさに殿を敬慕し、殿に心酔しているからだ。
まさか俺が時々殿に蹴りを入れているなどと言えば、衝撃で3日は抜け殻のようになってしまうだろう。
「そうですか。さすが我々がお仕えさせて頂いている殿様だ」
義兄は、感動の故か熱のこもった頷きを繰り返した。
義兄が俺に殿の話を求めるのは、彼が殿に会えない身分だからである。
そして、殿の側近である俺には、義弟であるにも関わらず丁寧な言葉遣いをする。
「私も早く、殿にお会いできるよう出世しなければ」
義兄はその後30分ほど意気込みを語り、徐々に過激化していく彼の殿様像の美しさに少々冷や汗をかいた。
帰り際、庭で兵法の鍛錬をしている甥に会った。
その甥曰く、
「俺もいつか叔父さんみたいになるんだ」
帰路、俺は理想と現実の間を埋めるものはなんだろうか、と悶々と考えた。
殿様の御ためと言いながら、俺は割と殿に対していい加減なこともしているし、殿もゆるいのだ。
それが現実なのだ。
殿や俺をそんな美しい目で見られても、現実は1欠片の美と99の混沌で出来ているものなのだ。
廊下を歩いていると、深水頼蔵に会った。
久々に見ても癪に障る笑顔だった。
「頼兄殿、風邪は治ったのですか?」
俺が頷くと、
「それは良かった。殿からあなたが風邪を引いたと聞いて、もしかするとまた川にでも落ちたのではないかと思っていました」
変わらず笑顔で奴はそう言った。
随分昔の子供の頃、俺は頼蔵に川に突き落とされたことがある。
いまのように寒い時期で、頼蔵には腹を抱えて笑われ、襟巻きから足袋まで濡れて凍え、帰宅してその有り様の理由を説明すれば父に叱られ、その後3日は風邪で寝込み、散々だった。
腹の立った俺は、嫌味には嫌味で返してやろうとしたが、
「あ、そう言えば、面白い菓子が手に入ったのですよ。これを殿のところに届けていただけますか?」
頼蔵は紙袋を差し出した。
中には、まだ湯気の立っているたい焼きが数匹、いや数個入っていた。
「よろしかったら頼兄殿もどうぞ食べてください」
頼蔵に言い返したい反面、殿様の御ためにはたい焼きを温かいうちに殿にお出ししなければならない。
俺は出掛かっていた言葉を飲み込んだあと、
「わかった。今から殿の部屋に行く」
と言って頼蔵の前をあとにした。
頼蔵には、殿様の御ためならば歯痒い場面でも引き下がる俺の性格を完全に逆手に取られてしまった。
その点がまた、頼蔵に対する嫌悪感をよりいっそう引き立てた。
殿にたい焼きを出すと、「冬はこういうのが美味しいね」と喜んで食べていた。
殿が食べたたい焼きは、すべて頭の先から尻尾の先まで餡が詰まっていたが、俺のたい焼きは尻尾がすかすかであった。
久々に見ても癪に障る笑顔だった。
「頼兄殿、風邪は治ったのですか?」
俺が頷くと、
「それは良かった。殿からあなたが風邪を引いたと聞いて、もしかするとまた川にでも落ちたのではないかと思っていました」
変わらず笑顔で奴はそう言った。
随分昔の子供の頃、俺は頼蔵に川に突き落とされたことがある。
いまのように寒い時期で、頼蔵には腹を抱えて笑われ、襟巻きから足袋まで濡れて凍え、帰宅してその有り様の理由を説明すれば父に叱られ、その後3日は風邪で寝込み、散々だった。
腹の立った俺は、嫌味には嫌味で返してやろうとしたが、
「あ、そう言えば、面白い菓子が手に入ったのですよ。これを殿のところに届けていただけますか?」
頼蔵は紙袋を差し出した。
中には、まだ湯気の立っているたい焼きが数匹、いや数個入っていた。
「よろしかったら頼兄殿もどうぞ食べてください」
頼蔵に言い返したい反面、殿様の御ためにはたい焼きを温かいうちに殿にお出ししなければならない。
俺は出掛かっていた言葉を飲み込んだあと、
「わかった。今から殿の部屋に行く」
と言って頼蔵の前をあとにした。
頼蔵には、殿様の御ためならば歯痒い場面でも引き下がる俺の性格を完全に逆手に取られてしまった。
その点がまた、頼蔵に対する嫌悪感をよりいっそう引き立てた。
殿にたい焼きを出すと、「冬はこういうのが美味しいね」と喜んで食べていた。
殿が食べたたい焼きは、すべて頭の先から尻尾の先まで餡が詰まっていたが、俺のたい焼きは尻尾がすかすかであった。
今日は仕事を休み、1日中部屋で寝ていた。
そろそろ昼食の時間になるという頃、殿が盆になにかを載せてやってきた。
「塩粥をつくったよ」
そう言うと、殿は盆から器を手に取り、机の上に置いた。
食欲は無かったが、殿がつくったのならと俺は匙を持って一口食べた。
塩辛い。
しかし、そんなことを言うことはもちろん、顔に出すわけにはいかない。
殿様の御ため、俺は粥をすべて食べた。
殿はその様子をにこにこと笑いながら見ていた。
きっと、俺のために台所の者からつくり方を教わりながら懸命につくったのであろう。
そう思うと、「殿様の御ため」に食べるなど随分失礼なことだと気が付いた。
あとで喉が渇いて仕方なかったが、塩が濃いのもまた美味く感じられた。
今年一番の馳走だった。
そろそろ昼食の時間になるという頃、殿が盆になにかを載せてやってきた。
「塩粥をつくったよ」
そう言うと、殿は盆から器を手に取り、机の上に置いた。
食欲は無かったが、殿がつくったのならと俺は匙を持って一口食べた。
塩辛い。
しかし、そんなことを言うことはもちろん、顔に出すわけにはいかない。
殿様の御ため、俺は粥をすべて食べた。
殿はその様子をにこにこと笑いながら見ていた。
きっと、俺のために台所の者からつくり方を教わりながら懸命につくったのであろう。
そう思うと、「殿様の御ため」に食べるなど随分失礼なことだと気が付いた。
あとで喉が渇いて仕方なかったが、塩が濃いのもまた美味く感じられた。
今年一番の馳走だった。