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マイナー武将のメジャー家老・犬童頼兄による日記。
 
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殿のキジ馬は鞠が好きである。
転がしたり上に乗ろうとしたり、大抵同じ方法で遊んでいるが、飽きないようだ。
その気に入りの鞠が、今日ふとした拍子に穴が開いて壊れてしまった。
キジ馬は悲しげに鳴きながら、『直して欲しい』と言わんばかりに鞠を押して殿の元に寄った。
「昔からこれで遊んでいたからなあ」
殿はしぼんでしまった鞠を手に取り、穴の開いている箇所を調べていたが、触れば触るほど鞠は小さくなった。
「殿、それを直すのは難しいですよ」
「だよね。どうしようかな」
殿がキジ馬をちらと見ると、雰囲気で直せそうにないことを察したのか、キジ馬はまた悲しげに鳴いた。
俺はさてどうしたものかと考えていると、自室の物入れに鞠らしきものを置いていたような記憶があることに気がついた。
それを殿に告げ、自室に戻って物入れをくまなく探した。
すると、記憶が正しかったらしく確かに見覚えのある鞠が出てきた。
古くなっていたが、まだキジ馬が遊ぶには十分持ちこたえられると思われた。
「殿、これを与えては如何でしょうか」
そう言って殿に鞠を渡すと、
「まだしっかりしてるけど、貰っていいの?」
と、遠慮がちに呟いた。
「さすがに私も鞠で遊ぶ年でもなければ、蹴鞠も致しませんので」
殿は大笑いし、
「そうか、よりあにはもうこれで遊ばないよね」
といつまでも笑っていた。
俺が鞠で遊ぶ様子でも想像したのだろうか。
俺は殿様の御ため
「鞠も物入れに置かれるより、使われるほうが有意義でしょう」
と言った。
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深水頼蔵と連名で提出しなければならない書類があったので、昼下がりに頼蔵の部屋に行った。
署名するには十数枚の文書を読む必要があったが、頼蔵は「そんなに時間は掛かりませんので」と俺をそのまま待たせた。
戦時には会計係から軍師になる彼の部屋には、山ほどの合戦記述書が保管されている。
暇だったので、俺はその内の最も新しい1冊を拝借して読んだ。
頼蔵の性格を表しているかのように、それには作戦の詳細や戦の経緯が非常に事細かに記されていた。
半ば感心しながら読んでいると、妙な言葉が目に留まった。
しかもそれは1度ではなく、幾度にも渡って記述の端々に見受けられた。
「この『襟巻き隊』とはなんだ」
頼蔵が文書に目を通しているにも関わらず、俺はたまりかねて訊ねた。
「見たままですよ。あなたの隊のことです」
頼蔵は爽やかなほどに軽やかにそう答えた。
「『殿様の御ために』戦でも活躍する頼兄殿ですから、特別に扱わせていただいただけです」
「そうか。そこまで見えるとは、さすがその眼鏡は伊達ではないな」
頼蔵の口から軽々しく「殿様の御ため」を出され、俺は頼蔵の眼鏡を粉微塵にしたい衝動に駆られた。

お家伝来の甲冑を眺めて、
「なんの変哲もないなあ」
と殿が呟いた。
お家の物に対しなんてことを言うのかと嗜めると、殿は「でも」と不満気だった。
殿が言うには、合戦場で見掛けたり噂で聞いたりした甲冑は、どれもなにかしら特徴と言うべきものがあったのが羨ましかったようだ。
特に、人伝に聞いた越後の上杉家の軍師、直江兼続の「愛」の前立てが気になったと言っていた。
「では、殿は愛に対抗して恋にでも致しますか」
俺は呆れながらこう提案した。
すると殿は、
「恋?こんな字だっけ」
と、筆を取って紙一面に力強く一字を書いた。
「変」。
「いくら殿様の御ためと言えど、自ら変人宣言をしつつ戦場を駆ける大将についてゆくことはできかねます」
殿はきょとんとしていた。
誰が置いたのか、朝、水を張った桶が放置されているのを井戸の近くに見た。
しかし、よく見てみると水ではない。
覗き込むと、桶一面に氷が張っていた。
氷が張りかけの氷水を見ることは冬には珍しくないことであるが、表面一面に氷が張るのはこの冬初めてのことであった。
朝の挨拶の折にこのことを殿に伝えると、
「どおりで今朝はやたら寒いわけだ」
と、身を縮めて火鉢に手をかざした。
今日、殿は深水頼蔵を呼んで堤防工事について相談し、午後は俺を相手に兵法の鍛錬をした。
胴着から着物に着替え、道場を後にしたのは既に日の沈んだ夕方だった。
「さっきまで暖かかったのに、太陽が沈んだだけでまた寒くなったね」
鍛錬でせっかく温まった体も、吹きさらしの廊下を歩くと瞬く間に冷えてしまった。
あまり体を冷やすのは良くない。
夕食はおでんだと聞いていたので、俺は殿様の御ため、囲炉裏のある部屋を予め暖めておき、台所の者にそこに膳ではなく鍋ごと用意するよう言いつけた。
そこでなら、温かい料理を温かいまま食べることができる。
「ここまでしてくれるなんて」
殿をその部屋に案内すると、俺に付いて歩いていたときの怪訝な目が輝いた。
「ありがとう、申し訳ないくらい嬉しいよ」
俺は殿を甘やかし過ぎなのかもしれないが、殿が喜んでくれるよう頭を働かすことが好きなのである。
今日は成人の日だった。
この日には、町人や農民の男子で、先年1年間に元服を終えた者たちが町ごとに集まり、皆の祝福を受ける。
茶を貰いに台所に行くと、台所の者の知り合いがこれに参加しているということを聞いた。
めでたいことである。
俺のときは、義陽公の次男に仕えると決まったときに元服した。
いつも眺めるだけだった城に上がれるということで異様に張り切り、その日の夜はなかなか眠れなかった記憶がある。
「楽しそうだなあ」
殿は朝から町の様子を眺めていた。
「僕もああいうのに参加したかったよ」
俺が持って来た茶を受け取ると、羨ましそうな目でそれをすすった。
武家の場合は、元服を済ませたあとに特別に皆に祝ってもらうような行事はない。
しかし、国主の家と一武家とは違う。
「なにを仰いますか。殿のときは、御家中のみならずくに中の者が祝い、喜んだのですよ」
14歳の国主が早世し、くにが薩摩に併合されると危ぶんだ領民にとって、薩摩から帰って来た元気のいい弟が跡を継いだことは、なによりも安心を示してくれることであった。
「そうかー…贅沢言っちゃったね」
キジ馬が擦り寄ってきたので、殿は抱き上げてキジ馬の頭を撫でた。
とは言え、俺は未だに殿が大人になったとは思えない。
名を改め、酒を嗜むようになったと言えど、昔と同じようにキジ馬を可愛がり、俺を「よりあに」と呼んでいる以上は、俺の中では殿はまだ長寿丸のままなのだ。
こうなってしまったのも、俺の殿様の御ためが間違っていたことに一因があるのかもしれない。
 
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(劇)池田商会制作様
2008年9月14日、九州戦国史を描く演劇を上演されました
主役は犬童頼兄!



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キリ番訪い者様へのお返事
・1年目2月17日300訪いの方
ご訪問ありがとうございます。
「青森県弘前市に相良姓または犬童姓の人が今もいるのか」という内容のご意見をいただきました。申し訳ないことに管理人も断言できるほどの知識はありませんが、答えられる限りお答えしたいと思います。
根拠に用いるには説得力が疑われますが、Wikipediaによると、子孫は「名字を変えて」津軽藩に仕えたとあります。よって、相良姓・犬童姓は頼兄の代で終わったとも考えられます。しかし、犬童頼兄は津軽で罪人として扱われず、教養人として津軽藩の藩士の育成に貢献していたようですから、わざわざ身の上を憚り名字を変える必要性は無かったのではないでしょうか。さらに、町の名前として弘前市相良町が残っています。このことからも、仮に一旦頼兄の代で相良姓が絶えたとしても、江戸期に家系を遡り相良姓を再び名乗り始めた可能性も考えられます。
憶測ばかりで答えになっておりませんが、管理人は今も相良姓を名乗る人がいるのではないかと思っております。この度はご訪問・ご意見ありがとうございました。
※結論確定いたしました※
人吉城歴史館の学芸員の方にお話をお伺いして参りました。
人吉にも弘前にも、流罪後の頼兄に関する史料は残っていないようです。そのため、弘前に頼兄つながりの相良姓・犬童姓が残ったかどうかを確認することはできかねるということでした。
よりあに書簡
メールフォームです。
お気軽にどうぞ。
よりあに書簡(別窓開きます)
相良頼房史実プロフィール
1574年生まれ。
第18代当主・義陽の次男として生まれ、父の戦死後は人質として薩摩に赴き、兄の死後は第20代当主となった。
関ヶ原合戦や大阪の陣を経験する。
犬童頼兄の補佐を受け、数々の場面で助けられるも、彼の勝手な振る舞いが悩みの種だった。
犬童頼兄史実プロフィール
生年不詳。
生家の犬童家は、肥後の奥地を治める相良氏に代々仕える。
相良家の2万2000石に対し、半分近い8000石を有した。
のちに相良頼兄、相良清兵衛頼兄と名乗る。
主家の維持に尽力するも、後年、専横の振舞いが目立ったため主家によって幕府に訴えられ、津軽藩に流される。
それに反発した一族が相良家に乱を起こし、一族全員121人が討死した。
弘前市相良町は頼兄の屋敷地に由来する。
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犬童頼兄
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相良家筆頭家老
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